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Thursday, October 18, 2007

A Season Too Far I (ラグビーまだやってます)

自分ではあまり気がついていなかったのですが、私はどうもアマノジャクらしいです。

家族の「お出かけ」に出発するまでは一番気乗りせず、腰が重かったりしますが、目的地に着くと一番はしゃいでいたりします。

かれこれ20年近くなるラグビーとのお付き合いにしても、この例外で無く、私はつい最近まで、

「オレ、ラグビーが好きだ!」

と口にして言うことには、憚りがありました。私の心の中ではあくまでも、

「いや~ほかにやりたいスポーツも無いし...」

というスタンスだったのです。

そんなわけで、昨シーズンの最終試合の後、夏のオフ・シーズンをニューヨークで過ごし、ヨガをちょっとかじった程度でなんもしていなかった私。口では妻に、

「いやぁ...オレももうラグビー引退だね...ワハハ...今度はゴルフだ...」

などといっていたのですが、香港に「帰港」した9月21日金曜日の翌日、22日土曜日にはもうラグビーしてました。

しかもまた2部リーグ...37歳のオジサンとしてはリーグのレベル落としたかったんだけど...。

9月22日

対HKCC(アバディーン)戦
ルース・プロップでスタートするも前半30分でリタイア。暑い...苦しい...ナサケネェ...
試合も大敗。

9月29日
対Valley戦
前半開始直後に立て続けにトライを決められ、「コリャ大敗パターンか...」と思ったら、持ち直し、なんと試合終了直前に逆転トライを決めて勝利。個人的には前週に比べてがんばったが、最後5分のところで「こむら返り」。リタイア...。ナサケネェ...

10月6日
対Dragons戦
昨シーズンの私の古巣チームが1部リーグからリーグを落としてきた。
同じクラブの2軍チーム。セオリーでは3軍チームである我々よりも強いはず。それでも何とか踏ん張り、接戦。惜敗。個人的にもやっとフル出場でチームに貢献できた。ヤレヤレ...。

そんなわけで、今シーズンもがんばります。目標は無故障。

どうやら私はラグビーが好きなようです。

Thursday, October 04, 2007

Boom Town

香港の景気がいい話をしたが、どうやら本当に景気がいいらしい。

ラグビーの練習の後、ヘッドハンターの人と話していたら、ニューヨークから香港での就職を希望する人たちの履歴書がわんさか来ているらしい。

ついにアジアの時代の到来か。

もっとも同じラグビーつながりの香港人の友人と景気の話しをしたら、

「早く次のクラッシュが来ないかな~...今の様子じゃ投資できないよ...。」

などと物騒な、でもみんな考えていることを大きな声でしゃべっていた。

おりしも香港市場がコーポレート・ガバナンスでアジアナンバー1に輝いたらしい。順位は香港、シンガポール、インド、台湾...そして5位にやっと日本。

インドと台湾に負けてんのかよ...トホホ...。

しかも圏外ながら中国が「よくがんばりました」評価なのに、日本の評価はネガティブ。

やはりトンカツ・ソースのせいか...。

Wednesday, October 03, 2007

Duke's Lesson

もうかなり前の話になってしまうが、Economist誌にデューク大学ラクロス・チームのレイプ事件顛末の反省記事が載っていた。

レイプ事件というのは、ラクロス・チームの大学生選手たちが乱痴気パーティーでストリッパーを呼んだところ、そのストリッパーが後日選手たちにレイプされたと訴えて、選手たちが刑事裁判にかけられたのだが、ストリッパーの女性の証言がじつはいい加減だったことがばれて、検察側の主張がデタラメだったことが明らかになった事件のことです。

どうやら同じパーティーで「お仕事」していたほかのストリッパー女史が、レイプなどなかったことを証言していたのに、「被害者」の女性が黒人であり、まぁ大学生スポーツ選手の乱痴気パーティーなどまちがっても褒められたことではないこともて手伝って、功名をあせる検事が無理失理裁判を推し進めてしまったらしい。

また事件に感情的に反応した大学側や、学生団体、そしてメディアもこぞってラクロス・チームを批判した。

Economistも同じく選手側を批判した記事を掲載したらしい(未確認)。

結果...冤罪。

しかし訴えられた側からしてみれば、

「どうもすいませんでした」

ではすまない話だろう。

同志社大ラグビー部の事件はどうなっちゃったんだろう。

ちなみに沖縄の米海兵隊兵士がレイプ事件を起こしても、沖縄県警は米軍兵士を逮捕できない。日米安保に基づく日米協定の下、在日米軍兵士には治外法権が認められている。米軍側に言わせれば、日本の警察の捜査基準が人権保護の面で国際基準に達していないからだそうだ。

明治の先賢たちの血と汗と涙の努力によって覆した不平等条約が、敗戦によって再び押し付けられていることを自覚している日本人はどれくらいいるのだろうか。そしてそうした非難に対してなんら対応しない日本の警察権力は、その怠慢が国益と国の体面を損じているということに気がついていないのだろうか。

Friday, September 28, 2007

Kennst Du Das Land (君よ知るや南の国)

昔の日本人の名前に対する感覚というのはどうもつかみにくい。

「ナントカの守」とか「ナントカの介」なんてのはれっきとした官名だが、中央の朝廷・幕府権威が衰亡した室町中期・後期はみんな勝手にやりたい放題。どうもみんな好き勝手に語感がきにいったやつを自分で選んでいたみたいだ。いわゆる「受領名」というやつ。

織田信長は初期、有名な舅の美濃の斎藤道三との会見のとき、

「カズサノスケ(上総介)でござる」

と名乗ったらしいが、これは自称なんだろうか。初めて会う人に、

「千葉県知事です」

といってしまう感覚がすごい。まぁ当時の人にとっては「かざり」にすぎないのだから、別にどうともないのだろうが、明治のご一新このかたの中央集権国家に生まれた人間の感覚からはかなりずれている。

もっとも信長の場合はお父さんの信秀が当時としては奇特な勤王家で、朝廷に献金などしていたみたいだから、万年金欠状態にあった皇室から正式に(形だけだけど)任官していたのかもしれない。たしか上総の国は律令制度の下では「上国」で「守」は親王の専権職だから、信秀のオヤジが京のあばら屋住まいの食い詰め王子に、

「セガレの任官、これでひとつよしなに...」

なんて「水戸黄門」に出てくる悪徳商人みたいなことをいていたのかもしれない。

信長は後に天皇に上奏して部下の明智光秀や羽柴秀吉に日向守、筑前守を授かっているから、ここら辺の任官制度や朝廷交渉ということに関して早い時期から学習経験があったという推察もありだろう。

もっとも武家の棟梁が部下にかわって朝廷に任官を上奏し(そして個人の個別の申請を排除する)、ひいては任官業務(権威授与)を朝廷に代わり代行する、という手口は鎌倉殿こと源頼朝以来の武家政権やりかただけど。(はい、そこ、源九郎くん、ちゃんと聞いているのかね?!)

どの官名がいいのか...というか、どの官名にどんなイメージがあるのか(あったのか)というのもわからん。

ま、相模守なんていったら鎌倉北条家のイメージだろうし(北条時宗は相模太郎だもんね)、三河守は足利家のイメージ。秋田城の介なんていうと鎌倉時代の安達泰盛みたいな「幕府政権の懐刀」というイメ−ジなんじゃなかろうか。(信長の長子、信忠は城の介だった。)保元の乱の後、平清盛が讃岐守に任官したことを嫉妬した源義朝が、続く平治の乱の短命クーデター政権の下で讃岐守に任官しているところをみると、讃岐の国はよいところだったのだろう。うどんと金比羅様と溜め池by弘法大師...ですか...ま、京からも近いしね。

なんでこんなことを考え始めたのかというと、池波先生の「真田太平記」を読んでいて、

真田昌幸が安房守...セガレの真田源三郎信幸が伊豆守...昌幸の叔父、矢沢頼綱が薩摩守(頼綱の息子の三十郎頼康は但馬守)...なんかみんなトロピカルな国だな〜。

と気がついたから。

もしかしたら上州の山奥、雪に閉ざされた岩櫃城で家族一同、囲炉裏を囲みながら...

昌幸(丹波哲郎のイメージで):「ムフフ...、わしゃ『安房』じゃ。『安房』はいいぞぉ。房総半島の先っちょで、沖では黒潮がぶちあたるあたり、美味い海の幸が喰い放題らしい...。どうじゃ、源三郎...おぬしはどこがいい?」

信幸:「おそれながら、拙者は『伊豆」がよろしいかと...。お父上のおっしゃる海の幸はいわずもがな、別所の湯にも勝るとも劣らぬ、出で湯の地と聞き及んでおりますれば...。」

昌幸:「ムゥ...良いところに目をつけたの...。」

頼綱(加藤嘉のイメージで):「フォッ、フォッ、フォッ...おぬしらまだまだ甘いのぉ...どうせ南の国に参るのであれば、いっそこの日の本の国のいちばん南。『薩摩』じゃよ。芋焼酎にさつま揚げ。桜島の灰のおかげでおのれの白髪も目立たぬわい。」

昌幸:「さすがは叔父上...スケールが違いますの。して三十郎は。」

頼康:「...但馬...で...お願いします。」

昌幸:「それ、どこじゃ?」

信幸:「丹波のむこうですな。」

昌幸:「黒豆の先か...地味なヤツじゃ...。おい、源二郎(幸村)、おまえは?」

幸村:「...」

なんて「農協ツアー」のはしりみたいな会話をしていた...わけないか。

Thursday, September 27, 2007

Future of Civilization

ニューヨーク 滞在中にセガレが私のマシーン(Dell Inspiron 6000)をぶっ壊してしまい、おかげでポッドキャストの更新ができない状態だったのですが、帰港直前にアップルのMacBookProを購入。会社のコーポレート割引が利いたのでラッキー。

そこで久しぶりにポッドキャストを更新し、帰りの飛行機のなかでのんべんだらりと聞いてみたら、Discovery Channelのこのビデオ・ポッドキャストで目が覚めちゃいました。



加来道雄さん...すごい...

Wednesday, September 26, 2007

A Stranger's Homecoming

てなわけで、香港に帰ってまいりました。「帰港」です。

第一印象...

なんかすごく景気がいい。

周りの人たちの「鼻息」が荒い。

いけいけドンドン。

帰りの飛行機(NY-香港直行...17時間無制限勝負...ツラカッタ...)で通路を挟んだ隣の客が読んでいた香港の新聞に、

「大四喜」

という見出しがあったので、

(なんじゃらホイ...?「大三元」なら知っているけれど...?)

失礼を承知で漢字の羅列を眺めていたら、どうやら香港証券取引所で四つの新記録が出たらしい。つまり、

1.ハンセン(恒生)指数最高値記録

2.H株指数最高値記録

3.出来高最多記録

4.時価総額最高値記録

う~む...サブプライム問題でピリピリしてたニューヨークとはえらい違いじゃ。ニューヨークの金融マンたち...今年のボーナスは期待できそうも無いからね。

かたや中国もインフレ問題が顕在化してきている。

北京政府が打つ次の一手、次の次の一手、そのまた次の一手...で株価も乱高下しそうだ。

どうなるんだろう...。

...で、日本は...フ~ン...福田さんね...ま、どうでもいいや。

勝海舟じゃないが、

「どうせなるようにしかならねぇよ。」

でしょう。

Monday, September 17, 2007

Celebrity Watching

ニューヨークで見かけた有名人...

真田広之

ある朝、通勤の途中、パーク・アヴェニューと56~58番街のどこかの角で、すれ違い。

「なんか、やたら色黒な東洋人がこんな暑い日にビシッとダーク・スーツでキメてるな...」

と、思いよく見たら、たそがれ清兵衛だった。

有名人オーラ度:60%


中村勘三郎、勘太郎、七之助

平成中村座の公演でニューヨーク入りしていた中村屋ご一行。

土曜日の休みに用事があってオフィスへ足を向けたら、オフィスが入っているビルの近くの日本料理屋の前ですれ違い。

遠くからでも、

「あ、背の低いオジサンが歩いてくる...。あ、勘三郎だ。」

と、わかりました。

「中村屋!」

とか

「平助!」(大河ドラマ「新選組!」で勘太郎が藤堂平助をやっていたので。)

なんて言ってみようと思いましたが、ご家族団欒のひと時だったようなので、遠慮しました。(その後、妻とリンカーンセンターへ観劇しにいきました。)

有名人オーラ度:80%


Christy Turlington

サイズが小さすぎたセガレの洋服を返品・交換しに妻がTribecaまで私を引っ張ってきたので、妻とセガレが洋服店に行っている間、自転車屋さんで時間をつぶしていたら、セガレぐらいの年の女の子とお手伝いさん風の黒人女性をつれた女性が子供の補助輪付チャリを引っぱりながらやってきた。

「お手伝いさんたぁ...金持ちなんだろうなぁ...」

と思って眺めていたら、サングラスをはずした顔のどこかに見覚えが...。

あとで妻に、

「ほら...あの...元スーパー・モデルで...ヨガやる...」

などと、もどかしさに5分ほど耐え抜いた後に、やっと名前が出てきた。

それにしても...まったく見事なまでにオーラなし。確かにスタイルが良くて、顔がメチャクチャ小っちゃい(オレの顔の二分の一?)けれど、あれだけのスタイルの人はそう珍しくはない。

やはりスーパー・モデルなんてぇのも、マーケットの需要という外因と、「自分ブランド」の確立と地道な仕事に対するビジネスの評価という個人の努力に尽きるんだろうな...と個人的に納得。

Sunday, September 16, 2007

InSPA World

日本人に欠かせないもの...それはお風呂でしょう。海外生活がそろそろ人生の50%を超えてきた私でも、お風呂が無い生活は...不可能ではありませんが、さみしいです。

シャワーだけでは「汚れ」は流せますが、「疲れ」がとれないのです。

そんなわけで、日本に帰国の際はほとんど必ず東京駅地下の東京温泉に行くのが私のお約束です。

長崎の隠れキリシタンたちが伝えてきた「和訳聖書」では、オリジナル通りマリアは馬小屋でイエスを産むのですが、その後すぐに宿屋のオヤジが出てきて聖家族のためにお風呂を焚く話になっているとか。

やはり日本人にとって風呂は欠かせないのでしょう。

香港では「まっとう」なサウナから、料金体系が表・裏ある「怪しい」風呂屋など、百花繚乱でしたが、ここニューヨークではどうもホテル付属のおしゃれな「SPA」しか見当たりませんでした。

しかし、ついに見つけました。

韓国系資本がオープンさせた、その名も「InSPA World」。

マンハッタン市内から地下鉄で30分ほどのFlushing。そこからまた送迎バスで約20分(しかも送迎バスの発着場所が不案内)という、距離的な不便さがイマイチですが、お風呂欠乏症に悩まされていた私にはまさに天の恵み。

4階建ての建物の中には男湯、女湯、ラウンジ、屋外プール、レストランとまさに健康ランドなみの充実ぶり。

早速家族を引き連れ、いってまいりましたが、セガレは屋外プールで大ハシャギ。私はサンスケ君に全身の垢を落としてもらいリラックス。妻も最上階の韓国料理レストランに太鼓判というわけで、家族一同大満足。

客層はコリアの皆さんが70%、日本人が20%、アジア人以外が10%といった感じでしょうか。週末は子供連れが多く(私たちもでしたが)、うるさいかもしれませんが、週日の日中は静かなのでねらい目です。

このInSPA Worldのオープンは当地日本人の間でもニュースだったようで、いろいろな方がブログで取り上げられています。ご参考までにリンクをこちらに > >。

Saturday, September 15, 2007

Yoga Debut


恥ずかしながら、ヨガ、初体験してしまいました。

数ヶ月前ほどから妻がハマリまくり、ほとんど毎日のように近所のヨガ・スタジオ通い。おかげで体の調子は絶好調なのだとか。

そんなわけで、レッスンのタダ券があるというので私も妻のヨガ・マットを小脇に抱え、いそいそとスタジオへ足を運んだのでした。

すっかりハードコアになってしまった妻は、暖房をきかせた中でやる「ホット・ヨガ」(気温が高いので筋肉がより伸びやすいらしい)をすすめていましたが、ただでさえ暑苦しい私が、そんな暑い中で屈伸運動したらそれこそ捩じれたサラミかハムみたいになっちまいますので、敬して遠ざけさせていただきました。

結論...けっこう気持ちいいです。

もともとレスリング・相撲などの格闘技系をやっていたので、体幹筋肉を鍛えること(四股ですね)や、ストレッチングになじみがありましたので、「息を吐くのと同時により筋肉を伸ばす」というヨガの基本もすんなりと入っていけました。

もっとも最近の運動不足で以前は太くてもけっこう柔らかかった体がコチコチになっていたのはちょっとショックでしたが...。鏡に映るオノレの姿はまるで二つ折りになったミシュラン・マン...。

続けてもいいかな。

Monday, September 10, 2007

Closed Langauage / Open Language


BBCのこんなサイトがあります。

英語の歴史。

なかなか面白いです。

ミュージカル・映画の「My Fair Lady」(といいますか、バーナード・ショーの戯曲「ピグマリオン」)でヒギンズ教授が言うように、英語と言う言葉は誰かがそれをしゃべれば、他の誰かがその人を憎むというように、あまりに多くの人たちによって、あまりにいろいろな話され方をしています。

こうした汎用性が現在の英語の世界言語としての地位を確固たるものにしている所以でしょう。いうなればOSソフトウェアのオープンソースみたいなもんですな。

かたや日本語は...難しいよね。

日本人じゃない人がいくら流暢に日本語しゃべっても、それは外国人の日本語に聞こえてしまう。

いわば英語が「開かれた言語」であるのに比べ、日本語は「閉じた言語」であるような気がします。

妻に言わせると広東語も「閉じた言語」なのだそうだ。

以前は世界中どこの中華街にいってもしゃべられている言葉は広東語だったが今ではそれが普通話に取って代わられている。

広東語がしゃべられていた理由は、世界に広がった華人ネットワークの主流が香港経由の広東人だったからでしょう。

また香港の経済力を背景にして、台湾人のテレサ・テンも北京出身のフェイ・ウォンも広東語の歌で香港デビューしていたわけだ。

しかし、妻によると広東語には独特の言い回しや、感嘆詞の使い方があり、そうした細部からネイティブ広東人なのか、ヨソモノなのかが簡単にわかってしまうらしい。

そうした意味では広東語も日本語同様、排他的な言語なのかもしれない。

もちろんいまでは広東語の本丸、香港でさえ普通話がはばを利かせています。

接客業はもちろんのこと、ヤムチャしに茶楼にいっても給仕のおばちゃんまで当たり前のように普通話を話しますし、仕事の採用で目を通す香港人の候補者(ホワイトカラー)の履歴書にも「普通話可」が当然です。

これにはもちろん中国の経済力の躍進が背景にあるのですが、それと同時に普通話が「開かれた言語」であることもその理由のようです。

中国各地に無数とある方言・中国語の亜種をしゃべる人たちにとって、普通話とはみんなが等しく「学んだ言葉」であり、そこには出身地による排他性などが比較的に介在しないらしいのです。(もちろん北京なまりの普通話だとか、上海なまりの普通話、四川なまりの普通話という違いはあるらしいですが。)

オレも早くしゃべれるようになりたい...。

Saturday, September 08, 2007

George MacDonald Fraser

うちのセガレはなぜかインディアン(ネイティブ・アメリカン)を「エンブレム」と呼びます。

なぜだ?

そしてなぜか、

「インディアンは悪者で、カウボーイは正義の味方だ。」

と、どこぞで覚えてきました。

恐るべし、アメリカのサマーキャンプ教育。

とはいえ、セガレの思い違いを更正しようにも、オレ様もあまりアメリカン・インディアンのこと知らんぞ...しかし分厚い人類学の学術書を読むのも面倒だし...。

というわけで、George MacDonald FraserのFlashmanシリーズ中の「Flashman and the Redskins」を買ってきて読みました。

このFlashmanシリーズは著者のFraser氏が、偶然骨董屋で見つけた主人公、ハリー・フラッシュマンの回顧録を編集・出版しているというフィクションの下に構成されています。

「フラッシュマン」というのは実は「トム・ブラウンの学校生活」という19世紀イギリスのパブリック・スクール(ラグビー校)を舞台にした物語で、主人公のトムをいじめる不良上級生で、最後には飲酒を理由に放校されるという役柄で登場するのですが、著者のFraserさんはこれを本歌取りして、「その後のフラッシュマン」の活躍という形で作品を書いています。

いろいろその向き(イギリス文化、ヴィクトリア朝、などなど...)が好きな方には、ウンチクに富んだ背景があるのですが、ま、早い話、娯楽作品です。

フラッシュマンはいわゆるアンチ・ヒーローの典型で、ずるがしこく、臆病で、ずうずうしく、無類のオンナ好き。ラグビー校を退学になった後、騎兵連隊に入隊し、アフガニスタン、クリミア戦争、セポイの乱、太平天国の乱、なんかに巻き込まれて大活躍をします。

ようするに大英帝国の揺籃期を背景にしつつ、Fraserさんのかなり細部にわたるリサーチを元にした大活劇といった趣きです。

今回読んだ「Flashman and the Redskins」は、カリフォルニアのゴールドラッシュの時代にニューオルリンズからサンフランシスコを目指す売春宿のご婦人方ご一行をエスコートする羽目になったフラッシュマンが米墨戦争直後のニューメキシコでアパッチ族に捕まり、命からがらに逃げ出す話と、その約25年後、リトルビッグホーンでのカスターの最後に立ち会う羽目になる話の二部構成になっています。

すらすらと一週間ほどで読んでしまいましたが、印象に残ったのは話の最後のほうのフラッシュマンのセリフ、

「お前が生まれた年、25年前、だからついこの間のことだ。オレはキット・カーソンと一緒にタオス(ニューメキシコ)からララミー(ワイオミング)まで旅したが、道一本なかったし、その間誰にも会わなかった。それが今じゃ毎日のように入植者がやってきて、どこもかしこも変わっちまった...お前が探しているような西部はもうすぐ無くなってしまう...。」

巻末のノートでFraserさんが書いていますが、長い人類の歴史の中において、アメリカの西部開拓というのは本当に「アッという間の出来事」だったのだそうだ。子供のころ幌馬車でやって来た入植者の子供が、晩年には西部劇映画を視ているような現象が起こったらしい。

こうした歴史のうねりの犠牲となったアメリカン・インディアン。

銃の乱射事件など、アメリカの暴力社会の悲劇を目にするたびに、その呪いを感じます。

とりあえずセガレには、

「いいインデイアンもわるいインディアンもいるし、いいカウボーイもわるいカウボーイもいるんだよ。本当にいけないのはみんなで一緒に仲良くできない人たちなんだよ。」

と言っていますが、理解できているんだろうか...?

Friday, September 07, 2007

Google Analytics

海音寺潮五郎さんつながりで、いつも拝見している、「塵壺」さんというブログがあるのですが、そこで取り上げられていた「Goodle Analytics」を当ブログでも利用してみました。

いや、面白いです。

どこの誰がブログ見に来てくれているのかがわかります。

いちばんアクセスが多いのがニューヨークと東京から、そして香港、イギリスの順なのは当たり前なのですが、アメリカではオレゴン、ミネソタ、アイダホ、ルイジアナ、ユタなどなどの人がお出でになっています。多分、英語のタイトルが検索で引っかかって、いらっしゃったのでしょう。そういう方々のサイト滞在時間というのもわかるのですが、皆さん一分以内に「サヨナラ」されています。

そりゃそうだ。日本語読め無い人はトップの記事が日本語だったらすぐに、「ハイ、サイナラ」でしょうな。

そのほかにも、モロッコ、インド、クウェート、イスラエルなどの方々がダマサレテいるようです。

どうもすいません。

まぁ、しかし...恐るべし、Google。

Tuesday, September 04, 2007

Books I Have Sold

「私はこんな本を読んできた...ムハハハ」なんて言うインテリな方々がいらっしゃいますが、私はずばり

「私はこんな本を捨ててきた」

でいってみたいと思います。

高校生のころ、渡部昇一さんの「知的生活の方法」なんて読んだころは、

「将来は書斎いっぱいの本に囲まれて、パイプをくゆらしながら『知的生活』をおくるのだ...」

などと、今から思えばチョーこっぱずかしぃ~、赤面噴飯ものの考えがありましたが(まったく...「痴」的生活の間違いじゃねぇのか?)、東京からイギリスに引越し、イギリスから東京に戻り、東京から鎌倉へ移り、鎌倉から某カリブ海の島を経て香港へいたったころには、

「人生、身軽に限る」

とすっかり宗旨替え。

いったいぜんたい「書斎」だったはずの部屋が妻の趣味で「茶室」にかわり、家の中ではいたずらなセガレの手の届くところには何もおいておけない今の状態では「知的生活」など夢のまた夢。一読して自らの血肉にならない本、もしくは常に座右におきたいと思えるような本以外は、さっさと処分する方針に変えました。

もしまた読みたいと思えばまた買えばいいのだ。

そんなわけで、ニューヨークもあと2週間を切りましたので、アマゾン等で入手した本の整理・処分をするべく、ニューヨークにもあるBook Offまでいってきたわけです。

第一回の処分本は以下の通り。

三谷宏治

どっかで推薦されていたので買ってみましたが、いやぁ~つまらんかった。両方とも半分も読んでいません。私の頭脳が三谷さんを必要としていないのか、三谷さんの世界があまりに高尚で私がついていってないのか、どっちかわかりませんが、現在の時点の私にはまったくご縁のない本でした。

「決断力」
羽生善治

自分が伝えたい自分の考えをはっきりしたテーマとメッセージとして簡潔に書いている。物書きのプロでもないのに、ものすごく冴えた筆力だなと感心しました。やはり頭が良い人なのですね。


邱永漢さんのご推薦。とはいえ、邱さん自身は、この本の内容を推薦しているというよりは、「ものづくり」から「金で金をつくる」経済に変化していく日本、というご自身のものの見方の証左としてこの本を捉えているような気がしました。

岩崎さん、以前私が書いた、

「無知蒙昧な愚民になり代わり...」

という典型的日本のエリートタイプであられるようです(元興銀マン...)。

個人的には岩崎さんが言っているような「大変化」がそうすぐに日本に訪れるとは思いません。

特に岩崎さんが力説する、KKRのような外国勢による「黒船」ショックは多分当分無いでしょう。

残念ながら。

ブルドッグソースごときで大騒ぎする日本のマーケットに国際資本は嫌気をさしているし、今の日本企業は世界的レベルでみてお買い得感ないもんね。

特に買収対象になりそうなダメな会社に限ってコストが高いし、買収した後のエグジット(出口)戦略の見通しが立たないケース多い。

買収後の経営ノウハウにしても、「経営のプロ」と呼ばれるような人材がマーケットに豊富にいないし(ユニクロの元社長がアイスクリーム屋やっている国ですからね...あぁもったいない...)。

世界中を浮遊する国際資本にしてみれば、面倒な日本でビジネスするよりは、もっと安く儲かりそうで戦略的に重要な中国や東南アジアにいった方がよっぽどお得。

(「国際資本」といってもその中には日本のお金がいったん国外にでたあとに戻ってきている場合も多いんだけど。)

日本のM&Aは日本の国内企業が、

「もうドラスティックにやらなきゃどうにもならん!」

てな具合になり、生き残りをかけて動き出すことにより始まると思う(というか現にそうなってきている)。

以前の「10・15年説」じゃないが、日本における本格的国際M&Aの大乱闘が始まるのは2014年前後じゃないかなと思っている。

単純にリップルウッドが新生銀行を再上場させたのが2004年だからなんだけど。

ま、そのころには団塊世代もリタイアしきって、自分たちの職(=既得権益)を守ることより、資産のより効率よい運用の方に興味を持ち始めるだろう。

それまでに極端な円安が進んで、国外からやってくる投資家には日本のものが何でも安くみえてしまう...というシナリオもありかな。

ついでに言えば、「死にそうな会社を買うより、死んだ会社を買ったほうが安い」ということもあります。

というわけで、いろいろ頭を刺激してくれる本でしたが、リピートには耐えないと思ったので、Book Offにひきとってもらいました。

キープしているのは陳舜臣さんの「中国の歴史 近・現代編」です。

Sunday, September 02, 2007

Alt Heidelberg

(このエントリーは私の高校時代のドイツ語の先生、桝谷氏に捧げます。)

近所に「Heidelberg」というおいしそうなドイツ料理屋さんがあると教えてくれたのは、うまいものに目がないわりには鼻が利くわが家の山の神。

すでにここ数ヶ月ほど、Second Avenueならびにある無愛想ながらもおいしいドイツ・デリ、Schaller & Weberにお世話になっており、かねてよりそのおとなりさんにあたるこのレストランが気になっていたそうだ。

そこで先日、家族で行ってきました。

潜入、Heidelberg...

なんか冷戦時代のスパイ物みたいだな...。

バー・エリアとレストラン・エリアに分かれた店内に入ったとたんに耳に流れ込んできたのはポルカの音色。

...ドイツだ...。

「何人ですか?」

と聞くウェイトレスのお嬢さんは、なんか恰幅のいい(ちょっと赤ら顔の)ブロンド娘。

...ドイツだ...。

しかもドイツ民族衣装風の白いブラウスとジャンパースカートのコンビネーション。

(しかもジャンパースカートの上半身部分がピッチピチ...)

...ドイツだ...。

(東洋人女性は自分をセクシーに見せようとしてジャンパースカートを着ないもんなぁ~...。)

他のウェイターも、その顔どうみてもメキシコ・プエルトリコ系だろ?というお兄ちゃんたちがレーダーホーゼン着てはりきっている。

う~ん...すごい。

やられた...。

こりゃドイツだ...。

それにしても本当のドイツ人はこういう「これでもか、これでもか」といった感じのコッテリまるごとドイツでっせ!という店作りに引かないのだろうか。

もし私が異国で日本料理屋に行ってBGMに琴の音色で「さくら、さくら」なんて流れてきたら、ちょっと食傷するが...どうなんだらう。

肝心の食べ物は、ドイツ料理屋に行くと決めたときから食べることにしていたアイスバイン。そして飲み物はピルスナーのビール。Warsteinerでいってみよう!

まずはビールでやられました。美味い!久しぶりにキレのあるビールを飲んだ。自分がアメリカに来てから、いかに不味いビールを飲んでいたのか思い知らされました。

次にアイスバイン。

...で、でかい!ゲンコツ四つほどの大きさの豚の脚関節が大きなお皿にドン。トロトロのコラーゲンがたっぷり。

付け合せはザウアークラウトとジャガイモのパンケーキにアップルソース。これがまた美味。ザウアークラウトが嫌いという妻も、

「これはオイシイ...」

セガレも黙ってパンケーキに喰らいつく。

...おいしい店に行くとなぜか無言になるわがファミリー。

しかもお値段おてごろ。

気取りもヒネリも無い。無骨ながら正直な「美味いもん」を食べさせるお店。

こりゃ掘り出しモンだねぇ~...と家族みんな大満足で家に帰ったのでした。

その後数日してからこんどは一人でバーに行ってきました。

ビールの味が忘れられず...。アハハ...。

バーのストゥールに腰掛け、一リットルの大ジョッキを頼んでグビグビやり始めたら、となりのオジイサンが、

「お若いの...よく飲むね...」

いやぁ~、好きなもんで...アハハ...といった具合に会話が始まった。

話を聞くと、オジイサンはピアノの修理工・調律師でジュリアード音楽院に出入りしているとか。

「オジイサン、もしかしてドイツ人?」

「ヤー、ヤー...」

しからば...と、ビールの助けを借り、高校以来、錆び付いたというもおろかなドイツ語を脳みその片隅から取りだして...

「汝ハ、ドイツノイズレヨリ来タルカ?」

「共産圏ナリ。ポーランド国境チカクノ町ナリ。」

「オー、ドレスデンノ近クナリヤ?」

「ヤー、ヤー...」

と、まぁドイツ語はここら辺までが限界...桝谷さん...面目次第もない。

とにかく片言が出てきたので、かなり打解けてくれたご老人。1956年に兵役を逃れるために西ベルリンに逃亡。ユダヤ系ルーマニア人の奥さんと結婚し、アメリカにやってきたとか。奥さんは10年前に亡くなっちゃったんだけど、美人だったんだ...などと思い出話が止めどもなく出てくる。

「誰か有名なミュージシャンと仕事しましたか?」

と聞いたら、

「この前、アイザック・スターンの家のピアノを直しに行ってきた...」

...ウォオーッ!スッゲー...というミーハーな自分をひたすら隠し、

「好きなピアニストっておられますか?」

「やっぱりホロヴィッツだね...サイン入りのレコードもってるのさ...」

...ホロヴィッツとは...古風ですな...。

レストランの由来の話を振り向けたら。

「いやね、ニューヨークのここら辺一帯は昔はジャーマンタウンだったのさ。ドイツ語オンリーの映画館が三つもあったんだ。」

「あぁ...キーノ...でしたっけ」

「そうそう。で、この店は1960年ごろアルゼンチンからやってきたドイツ人夫妻がはじめたのさ。だからもうすごい老舗なんだよ。」

「へっ?またなぜアルゼンチン?」

「ハハハ...ご主人が元ナチス親衛隊だったのさ...。だから戦後亡命していたんだ...。」

「(...マジかよ...。)」

「個人的に親しくしていたから、彼らのニュージャージーの自宅に行ったこともあったけど、昔のSSの制服を着たご主人の若いころの写真があったりして、ありゃおったまげたね。ほら、さっき言ったけど、うちの妻はユダヤ人だったからねぇ...。」

「そりゃ...ちょっと...驚きだったでしょうね...。」

「いや、みんなもう過去の話さ。アメリカまでやってきて過去を引きずっているのもバカバカしいはなしだろ。」

「はぁ、なるほど...。」

「まぁそんなわけで、今ではあの夫妻の娘さんがこの店を仕切っているのさ。」

なるほどね~...と話を聞きながら、話題はご老体のご趣味のスキーにうつり、つぎにフスバル(サッカー)なぞお好きですか?と聞いてみたら、

「いや、もうサッカーは見ないね。バイエルン・ミュンヘンだろうが、どこのチームだろうが、最近はプレーヤーが外国人ばかりで...あれはドイツのチームではない!」

「...」

「大体ケルンにモスクを建てるなんて話、どうなっとるんだ!」

「...(話題を変えよう...)そういえば最近1954年ワールド・カップの話の映画がありましたね...『ベルンの奇跡』でしたっけ?」

「そう!あれは忘れられない試合だった...決勝でハンガリーに2点先行されたあとに逆転...3-2...ドイツ初優勝...」

...とご老体の目が遠くを見つめて潤んできたところで、

「...おぉ、もうこんな時間か...それでは...」

と失礼しようとしたところ、

「もしよかったら15日のパレードにおいで。」

との一言。

9月15日にドイツ系アメリカ人のパレードがあるのだとか。来賓はドイツ系アメリカ人で国務長官まで上り詰めたキッシンジャーさんと、東西ドイツ統一の功労者、ヘルムート・コール元首相なんだと。

アメリカではユダヤ系アメリカ人の代表のようなキッシンジャーとコールが揃い踏みとは...ナチスの悪夢も遠くなりにけり...なんだろうか。

しかしこの店に通いつめたらビールとトン足であっという間に通風だな...。

Friday, August 31, 2007

Hollywood Espionage

昨日の「ゼンダ城の虜」エントリーで触れた「第二次世界大戦前夜のハリウッドにおけるイギリス・スパイの活動」の続き...

あのエントリーでも書いたとおり、この話を初めて聞いたのはゴア・ヴィダルの「Screening History」という短編エッセーを読んだとき。主に戦前、1930年代の映画を背景に当時のアメリカ政界とヴィダル個人の思い出を語っている、その向きがお好きな方(オレぐらいか?)には面白い本です。

本来であればこうした「スパイ物」の話題はたまねぎの皮をむくように、外側から核心にじわりじわりと話を進めていったほうが面白いのでしょうが、いきなり本題から入ってしまいます。

映画監督・プロデューサーであったアレクサンダー・コルダ(1893~1956)はウィンストン・チャーチルのハリウッドにおけるエージェントだったのです。

亡命ハンガリー人(ユダヤ系)であったコルダがイギリス国籍を取得したのは1936年。1942年にはナイト位を授爵しています(チャーチルが首相だった時)。

そしてコルダ君、本国イギリスがチェンバレン首相の下で反戦ムードに流れる中、チャーチルの意を請けて、一生懸命

「アメリカ人諸君、風前の灯のイギリスをともに救おう」

っていうプロパギャンダ映画を作っていたのです。

いや、プロパギャンダ映画といってもナチのゲッペルスがやったような露骨なヤツではなく、もっと微妙なヤツですが...

例えば...

「紅はこべ(The Scarlet Pimpernel)」(1934年)
主役のサー・パーシー・ブレイクニーを演じるのは、レスリー・ハワード。後の「風とともに去りぬ」のアシュレー君。なんとコルダと同じ、ハンガリー系イギリス人。

お話の内容は...フランス革命の下、暴政の犠牲となりギロチンの露と消えゆく運命のフランス人貴族たちを救う謎のヒーロー「紅はこべ」の正体は...いかに!

...ナチスの暴政の下、犠牲となるユダヤ人たちの命を救うヒーロー...はいないのかい!

「Conquest of the Air」(1936年)
航空技術の発展をなぞったドキュメンタリー・タッチの作品。第一次世界大戦における航空戦の映像もあり。若きオリヴィエが再現シーンで出演しています。

...再軍備したドイツに遅れをとっているものの、イギリスは空軍力の充実に力を注ぐべきだ!これは当時、野に下っていたチャーチルが提唱していた政策。ちなみにイギリス空軍のスター戦闘機スピットファイアの試作機初飛行はこの映画と同じ1936年のこと。

「Fire Over England」(1937年)
スペインの暴君、フィリップ二世の命により迫りくる無敵艦隊!エリザベス女王とイングランドの運命はいかに?!オリヴィエとヴィヴィアン・リー演じる若い二人の恋人たちの運命は?!そして果敢にスペイン艦隊に夜襲をかけるオリヴィエ君の命運は!?

...ヨーロッパ本土は暴君の手に落ちた...しかし小国とはいえイングランドあるかぎりヨーロッパに自由の光は消えないのだ!がんばれイングランド!(アメリカ早く応援に来い!)

「The Four Feathers」(1939年)
所属部隊の出撃直前に部隊を辞した元英国陸軍士官が、「臆病者」の汚名を雪ぐべく、窮地に陥った部隊を救う大活躍!

...アメリカ!まだ遅くはないぞ!早く応援に来い!

なお、この作品には「ゼンダ...」のザプト大佐ことオーブリー・スミス君が登場します。

「That Hamilton Woman」(1941年)
イギリス海軍のヒーロー、ネルソン提督(オリヴィエ...またかよ...)とハミルトン夫人(ヴィヴィアン・リー...またかよ...)の間に燃え上がる不倫の恋...しかし暴君ナポレオンある限りヨーロッパに平和は訪れない。ヒーローは恋人の腕を払いのけ、祖国のために死地に赴かなければならないのだ!

この映画はチャーチルのいちばんお気に入りの映画だったとか。

ヴィダルによれば、こんなコルダ君や関係者のがんばりにより、1937年にプレイボーイなエドワードのピンチヒッターとして戴冠したジョージ六世(今のエリザベス二世のパパ)が北米訪問でアメリカに来たときには、映画好きのアメリカ人たちはすっかり「国王の勇敢なるしもべ」を演じる用意ができていたとか。

ヴィダルの観察によれば、当時のイギリス人映画制作者もアメリカ人の大多数が世界地理にうとい事を知っていたので、映画の冒頭に必ず「地図のシーン」があったのだとか。つまり、誰かが主人公の手を取り、地図や地球儀を指差して、

「ごらん...この島国がイングランドじゃよ...」

というシーンが必ずあったと。

そういえば、「カサブランカ」の冒頭でもフランスのパリからカサブランカまでの道のりを示す「地図のシーン」があったっけ。

確かに今でも「日本は中国南岸にある」なんて平気で言っちゃうアメリカ人ですから、ちゃんと教えておかないと勘違いな国に攻め込んじゃうかもしれないもんね。(ブッシュもイラクにいっちゃったし...。)

チャーチルはお父さんの代からロスチャイルド家と関係が深い。それだけが理由じゃないと思うけれど、チェンバレンに代表されるイギリスのエスタブリッシュメントがナチスのユダヤ人に対する差別政策に目をつぶって和平政策をとるようなことに、チャーチルはがまんできなかったんだろうなと思うわけです。そしてそうした背景がチャーチルと反ドイツ・親イギリスで結束したユダヤ系映画人たちのネットワークの接近に一役買ったのではないかと思うんですが、どうでしょう。

なお、「ゼンダ城の虜」のプロデューサーはデイビッド・O・セルズニック。彼もユダヤ系です。そしてこのセルズニックが一世一代の大作「風とともに去りぬ」(1939年)に取り組んだとき、主役のスカーレット・オハラに抜擢したのがコルダ作品で世に出たヴィヴィアン・リーだったというのには、なにか因縁があるのでしょうかね。

なお、日露戦争時に戦費拠出のためにロンドン・ニューヨーク市場で国債発行を模索していた高橋是清がその目的に成功した陰には、当時ユダヤ人圧迫政策をとっていたロシアに反対するユダヤ人ネットワークの協力があったからなのだ。そこにもチャーチルとロスチャイルドは登場している。

追記:念のため言っておくが、私は「ロスチャイルド家の陰謀」...「赤い盾」...まがいの陰謀説者じゃございません。誰が言った言葉か忘れたが、「陰謀説」というのは、万事万象の因縁関係は知り得る、また説明できると思い込んでいる人間の傲慢の現れなのだそうだ。

Thursday, August 30, 2007

Prisoner of Zenda

昨晩、テレビをつけたら「ゼンダ城の虜(The Prisoner of Zenda)(1937年)」をやっていた。

なつかしい。

確か初めて原作の和訳を読んだのは中学生のころ。その後イギリス留学中の1990年ぐらいにテレビでこの映画版を初めて観た。ジョージ・マクドナルド・フレイザーのフラッシュマン・シリーズのパロディー版「Royal Flash」も読んでいる。

アントニー・ホープの原作の出版が1893年だっていうから、この話も古いんだねぇ...。この手の「普通の人が王様や大統領と瓜二つで替え玉をやるという冒険譚」の元祖でしょうな。そうした意味では映画「Dave」や「影武者」のひいおじいさんぐらいにあたるのかもしれない。

この1937年の映画版では主役のルドルフ・ラッセンディル/ルリタニア国王ルドルフ五世を「コールマンひげ」のロナルド・コールマンが演じている。国王の親友、フリッツ・フォン・ターレンハイム役はまだ若い、ゆで卵みたいな顔したデイヴィッド・ニーヴン(以前の関連エントリー、その1、その2)。国王に忠実なザプト大佐はオーブリー・スミス。

かたや悪役勢。国王の弟、マイケルはレイモンド・マッセー(後にリンカーン役で名を成します)。ヒトクセもフタクセもあるマイケルの手下、ヘンツォウのルパートにダグラス・フェアバンクス・ジュニア。そしてマイケルの愛人、アントワネット・ドゥ・モウバンにメアリー・アスター。

アスターさんは「マルタの鷹」でもラストにボギーを誘惑しようとして、ボギーにイケズにされています。なんか、そんな役が似合うハリウッド女優には珍しい「昔の名前で出ています」的、陰のある美人なんでしょうか。まぁイングリッド・バーグマンの懇願にもなびかなかったボギーですから(「カサブランカ」ね、念のため)、しょうがないか。

それにしても、こういう「淫らな女」役をフランス人にしてしまう原作者、ホープさん。なんかいかにもイギリス人な短絡思考です。

映画公開時には、この「だらしない国王に代わってイギリス人紳士が正義を行う」というプロットラインが、シンプソン夫人に骨抜きにされて大英帝国の玉座を辞した(1936年の出来事)エドワード八世への批判と受け止められたらしい。確かにフリッツ役のデイヴィッド・ニーヴンが言う最後のセリフ、

「歴史は必ずしも正しい人間を国王に選ばない」

というのはウィンザー公エドワードへのあてつけととれるかもしれない。

コールマン、ニーヴン、そしてザプト役のスミスは当時のハリウッド在住イギリス人俳優のリーダー的存在だったので、何らかの意図がそこに働いていたとしてもそれは不思議ではないかもしれん。

もっと面白い話は、コールマンが実はイギリス情報局のエージェントだったらしいという話。これは作家のゴア・ヴィダルが言っているのだが、もしそうだとしたら国王になりすますルドルフ役を演じるコールマン君の演技をまたいっそう興味深く観ることができます。

オーブリー・スミスはクリケットのイングランド代表だったこともあるらしく、ハリウッド・クリケット・クラブのキャプテンだったとか。 そしてスミスは戦後、「良好な英米関係への貢献」を理由にナイト位を授爵されている。

そしてサンドハースト(イギリスの陸軍士官学校)出身のニーヴン。

怪しい三人組だ...。

君たち...第二次世界大戦前夜のハリウッドでいったい何をしていたのかね...?

付録:なんか笑えるゼンダ城の虜ファンサイト...というか悪役のはずのマイケル応援サイト。

Tuesday, August 28, 2007

Salon For Kindred Spirits

多分「アメリカ建国の父」と呼ばれる人たちの中で一番おもしろそうなベンジャミン・フランクリンさん(1706~1790)。

後に続く独立戦争後のリーダー世代や19世紀人は、しかめつらしいモラリスト、または偽善者(ジェファーソン君、キミのことだよ!)だったりしますが、啓蒙主義時代の空気を吸った18世紀人だったベン君は話がわかる人だった。

若い友人の「ムラムラしてしょうがないんですけど...」みたいな質問に、

「肉体関係を持つのなら年上の女性を選びましょう...彼女たちに感謝されますから。」

なんて言っちゃうヘンなオヤジ。

(このAdvice to a Young Manは必読。英語が古臭いので読むのに苦労するかもしれませんが、「... in the dark all cats are grey...」など、爆笑することまちがいなし。)

まぁ、ワシントン君がチンタラチンタラ独立戦争をやっている間、9年間(1776~1785)、外交官としてフランスに居座り、フランス国王相手に軍事協力を取り付けたり、シレッとした顔で戦争遂行のための借金したりしていたのですから、一筋縄でも二筋縄でもいかないジジィだったんでしょう。(日露戦争時の高橋是清に通じるかもしれない。)

そんなベン君がまだ21歳の若僧だったとき、フィラデルフィアで「フント(Junto、ラテン語で「会議」の意)」という雑談サロンの開設を企画します。ここでの議論や会話がその後の独立運動に結びついていくわけです。

21歳でそんなサロンを仕切っていたベン君。17歳のときにボストンの実家を家出してきたばかりの印刷工のわりにはなかなかの社交上手です。

話が脱線しますが、いろいろな陰謀説に登場するフリーメイソンなんかも、その存在意義においてはこのJuntoとたいして変わりは無かったと思うんですよね。

あの当時の人たちにとって社交の場なんて日曜日ごとの教会がある程度。とくに大地主で農場経営に忙しいワシントン君やジェファーソン君みたいな人たちはご近所付き合いもできない(というかご近所さんがいない)。教会じゃしにくい話なんかもあるし...ってなところで「フリーメイソン」がオルタナティブな社交・意見交換の場を提供していたのではないでしょうか。

最近アメリカやイギリスでもこのベン君のJuntoに倣った「意見交換サロン」が流行しているようです(しかもなぜかヘッジ・ファンド・マネジャーたちの間で)。

ふりかえって、わが日本。

人間関係がすべて縦割りだった江戸時代に、社交や意見交換の場を提供していたのは...

司馬さんの「竜馬がいく」を読むまでも無く、千葉・桃井・斉藤の江戸の三大道場をはじめとする剣道道場だったり、緒方洪庵の適塾、吉田松陰の松下村塾、そしてマイナーなところでは高野長英や村田蔵六が学んだ広瀬淡窓の咸宜園だったりしたわけです。

やはり長幼の別が厳しい儒教道徳の影響下にある日本では「サロン」というフラットな組織ではなく、同一の「先生」を仰ぐ下での「門下生」という形のほうがすんなりといくんでしょうな。

まぁ、慶應義塾なんてのもこのラインの延長線上にあるわけだし、近いところでは松下政経塾とか、大前研一さんの「ビジネス・ブレークスルー」とかグロービスなんてのもこの類でしょう。

日本にいたときにちょっと顔を出したことのある青年会議所とか、ヒルズ族系社交パーティーなんかは、人と人との結びつきに発展したり、新しいアイディアが開花するような土壌ではないんでしょうね。(男と女の結びつきに発展していたところはあるようですが...っていうかそれが目的だったのか...って今頃気がつくなよ...)

やはり日本人は「お勉強」「修行」という媒体を介した方が人間関係が発展するマジメな人種なんでしょう。

Monday, August 27, 2007

Billy Joel Is A Beatles Fan

ビリー・ジョエルはビートルズのファンだった。

なにげなしにWikipediaのエントリーを眺めていたら、面白いインタビューへのリンクがあった。

このリンク先の「Billy Joel Meets The Beatles」という音声ファイルを聞いてみてください。

1964年のアメリカ音楽シーンの情景が浮かんでくるようなビリー君若き日の思い出話。

ケネディ暗殺による若い世代の失望感。エルヴィスに代表される、ハリウッドに買収されて牙を抜かれてしまったロック音楽。そして公民権運動の高まりにより、穏健派世論を恐れたラジオ放送局がR&Bを流さなくなってしまう。

そうした飼い殺しの状況にいたアメリカの若者たちに、いかにイギリスからやってきた四人組が衝撃を与えたか。

自分たちで曲をつくり、自分たちの言葉で歌詞を書き、自分たちなりに演奏する。

そして反体制、反権力のスタンス。

年若いビリー君は「シビレテ」しまったわけだ。

聞いていて「なるほどねぇ~」、と納得しました。

それにしてもこのインタビューでビリー君が披露するハリウッド・ユダヤ人の口調や、ジョン・レノンの口真似は、あまりにもドンピシャで笑ってしまった。

ところで先日のエントリーでもタッチしましたが、日本のKanって本人も認めるとおりビリー・ジョエルの影響をうけまくっているんですな、これが。

日本で大学生をやっていたとき(1989年...のことです...)、先輩の車で聞いた「TVの中に」。Kanの歌い方がなにかに似ているんだよな~...と思っていたのですが、最近気がつきました。ビリー・ジョエル君の「Easy Money」でした。

Saturday, August 25, 2007

Investment Management As Defensive Game

プライヴェート・プラクティス(つまり法律事務所勤め)の弁護士稼業から資産運用会社に鞍替えしてはや6ヵ月。

転職前の思惑(その1・その2)や、その後の意気込み(その1・その2)など、いろいろ考えながら「オン・ザ・ジョブ・トレーニング」してまいりましたが、今回は資産運用という「お仕事」そのものに関する現時点での感想を少々。

まずは「資産運用会社にお金を預けるということは守りの投資」であるということ。

尊敬する邱永漢さんが、

「投資信託なんて自分の頭を使わないで儲けようとする人たちのものです。」

なんて相変わらずのドライな言い方で一刀両断していましたが、実際にその業界に身をおいてみて見回したところ、まぁ当たらずとも遠からずなお言葉だなと思います。

ただ言わせていただきたいのは「利殖のことに頭を使わないですむ」というメリットを馬鹿にしてはいけないということですね。

邱さんも機会のあるごとに「株の儲けは辛抱料」「がまんが必要です」なんていっていますが、つまりそれはそれだけ「辛抱」できず「がまん」が足りない人たちが多いということの裏返しなわけです。

おおざっぱにいってえしまえば、資産運用業界の仕事はこうした「辛抱」がきかず「がまん」できないお客さんの代わりに辛抱してがまんするようなものだということです。

そして運用成績が悪化したときに、お客さんに「辛抱」や「がまん」してもらうためにTracking Errorというクッションをあらかじめもらっておくのです。

Tracking Errorとは運用成績を計る際に基準(ベンチマーク)となるインデックス(例えば日本株であればTopix)に対してパーセンテージにしてどれだけ差が出ているかという数値を指します。

運用会社はそうしたTacking Errorの「クッション」をもらった上で、許容範囲内のリスクをとりつつ、アップサイドを探します。

このような前提で運用していますので、「イケイケドンドン」な投資ではなく、どちらかといえばボトムラインを気にしながら運用していく「守り」の投資であるというわけです。

実際、アクティブ運用している投資顧問会社の90%はインデックスに負けているという歴然とした統計があるわけです。市場はプロにだって甘くない...。

Friday, August 24, 2007

Human Resources

先週のエコノミスト(英)の記事でアジアの深刻な人材不足という記事があり、あまりにも思い当たることばかりで読んでいて声を上げて笑ってしまった。

中国はもちろんのこと、アジア全体の経済が拡大している中で、それを支える人材がいない。既存の教育機関・制度が、必要とされる人材の育成に適さない。

結果として賃金インフレはもちろんのこと、肩書きインフレが起こっているとか。

確かに名刺だけ見るととんでもなくゴリッパな人が中国にはたくさんいます。

「海外教育を受けた出戻り組は、同僚から歓迎されない場合が多い...」という観察にも、大きく頷いてしまいました。

邱永漢さんのネット・サイトにブログを書いている柳田洋さん(中国で会社経営をしている)が書いていたが、日本人がそのチームプレーヤーとしての本質をうまく活かせば、活躍の場はたくさんありそうなもの。しかし語学と腰の重さと「井の中の蛙」気質が邪魔している。

おりしも9月からスタートする香港の部下が見つかり、またNY訪問中の東京オフィスの人からも採用関連の相談をされ、これからは「人材発掘」はもとより、「人材開発」というテーマを念頭に置きながら仕事しなければな~...と思い直した次第。