Sunday, January 13, 2008

御参り

あまり「信仰」というような、大げさな話ではないのですが...

東京出張の度に可能な限りお参りしているのが、ここです。

ごぞんじ、平将門の首塚。

幸い大手町のビジネス街のまっただ中なので、ミーティングの間の空き時間で、参拝可能。

京都で獄門にさらされた将門の首が坂東に飛んで戻ってきたという伝説が背景になっているので、近辺のオフィスで働くビジネスマンの皆様も、海外出張からの無事帰国を祈願されるとか。

私もいつも、

「おかげさまで今回も無事に帰って参りました」

と将門様にご報告しているわけです。


まぁ、首だけになって帰国...ってのは勘弁してもらいたいですが。

去年の12月にとんぼ返り帰国した際にも、ホテルから早朝ジョギングがてらお参りしてきました。朝も早よから神田明神の氏子さんとお見受けするおばさんが清掃されていました。師走のまだ薄暗い寒空の下、頭が下がります。



海音寺潮五郎さんの「平将門」。愛読書の一つです。もう多分5回ぐらい読み返しています。これを読むと、「将門」というよりは「小次郎」と呼びたくなります。

この海音寺作品をドラマ化したのが、1976年の大河ドラマ「風と雲と虹と」。将門役は加藤剛さんでした。

京女の吉永小百合にふられた加藤剛さんが男泣きに泣いて、泥まみれになりながら、

「そうだ...坂東に帰ろう...」

というシーンはなかなか泣かせました。まぁ、吉永小百合ごときにそこまで取り乱すか...というツッコミもありだとは思いますが、あの当時の主たる大河視聴者であった団塊世代にとって、吉永小百合は絶対的存在だったということでしょうか。

この首塚に立てられている保存会による由来書きはなかなかの名文で、しかも達筆な手書きで読ませます。

将門首塚の由来

今を去ること1500有余年の昔、鎮守府将軍・平良将(よしまさ)の子将門(まさかど)は、下総の国に兵を起こしたちまちにして関東8カ国を平定、自ら平親王(たいらのしんのう)と称して政治に革新を図ったが、平定盛と藤原秀郷(ひでさと。俵籐太たわらのとうた)の奇襲を受け、馬上刃刀に戦って憤死した。享年38才であった。世にこれを「天慶の乱」という。ちなみに憤死の地は茨城県岩井市の神田山(からだやま又はかんだやま)で首なしの墓がある。

将門の首級は京都に送られ獄門にかけられたが、三日後、将門岩、に別れを惜しみ、白光を放ちながら東方に飛び去ったという。そして、将門の首級は武蔵国豊島郡芝崎に落ちた。大地は鳴動し、太陽も光を失って、暗夜のようになったという。村人は恐怖して塚を築いて埋葬した。これすなわちこの場所であり、将門の首塚と語り継がれている。

その後もたびたび将門の怨霊が災いをなすため、徳治2年(1307)、真教上人(しんぎょうしょうにん。空也上人の二番弟子。ちなみに一番弟子は一遍上人である。)は、将門に「蓮阿弥陀仏」という法号を追贈(ついそう)し、塚の前に秩父産板石の塔婆(とうば)を建てて日輪寺に供養し、さらに傍らの神社ににその霊を合わせ祭った。その神社が神田明神と呼ばれるようになったのはそのときからである。ようやく将門の霊魂も鎮まり、この地の守護神になったという。

神田明神と日輪寺は現在の地に移っているが、首塚は古墳であるため移転は遠慮され昔の地にそのまま残って現在に至っている。したがって、将門塚の礎石の上にある石灯篭は当時のものである。板石塔婆も付近の火災で損傷するたびに修復されて現在にその面影を伝えている。

なお、将門が京都で獄門にかけられたその地においては、のちほど、空也が将門の霊を手厚く供養したという。「空也供養の道場(現在は京都市下京区西洞院四条下がるに小さな祠が残っており、地元では訛って膏薬道場といっている。)」である。

「天慶の乱」の頃は、平安朝の中期に当たり、藤原氏が政権をほしいままにしてわが世の春を謳歌していたが、遠い坂東でも、国々の司が私欲に汲々として善政を忘れ、下僚は収奪に民の膏血を絞り、加えて洪水や干ばつが相続き、人民は食なく、衣なく、その窮状は言語に絶するものがあった。そのため、これらの力の弱い多くの人々が将門に寄せた期待と同情とは極めて大きなものがあったので、今以て関東地方には数多くの伝説と将門を祭る神社がある。このことは将門が歴史上朝敵と呼ばれながら、実は、郷土の勇士であったことを証明しているものである。

また、「天慶の乱」は武士の台頭の烽火であるとともに、弱きを助け悪を挫く江戸っ子の気風となってその影響するところは社会的にも極めて大きい。

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