Monday, December 31, 2007

It All Happened In 2007

2007年のハイライト

Saturday, December 29, 2007

Family Movie

わが家の奥方の誕生日。この作品が息子からのプレゼントだったらしい。

Friday, December 28, 2007

Blowback

パキスタンのブット元首相暗殺事件。自分で考えてみて、多分こんなんところじゃないかというあたりを書いておく。自分の見方が100%当たっているとは思わないが、とりあえず仮説を立ててみて、今後の時局の発展の中で自分の見方を検証していく出発点とするわけだ。

いくら民主的に選ばれたとはいっても、反アメリカ感情の民衆におもねるポピュリスト(要するに日和見主義)のリーダー、シャリフにがまんできなくなったアメリカが、軍のトップ、ムシャラフのクーデターを容認したのが199910月。それまで反米・親ソというスタンスだったおとなりのインドに対抗させる意味でアメリカはパキスタンに肩入れしてきていたわけで、そのみかえり(?)にパキスタンの不良・腐敗政治家連中をがまんしていたのだが、ソ連の崩壊とインドのアメリカへの歩み寄りの結果、そんな必要もなくなってきたわけだ。

2001年の9.11以降もムシャラフはイスラム過激派を弾劾し、ブッシュ大統領の覚えもめでたかった。

しかしブッシュとしてはどうしても任期が終わる前に、パキスタン・アフガン国境地域に潜伏しているらしいオサマ・ビン・ラディンを捕まえたいところ。一方ムシャラフとしては自分の脆弱な支持基盤をアメリカの手先としてちょこまかして、イスラム過激派を刺激、人心離反ということでむやみに犠牲にしたくはない。

あせるブッシュ政権。

しかしせっかく穏健派のムシャラフをトップに据えたのに、そのムシャラフにプレッシャーをかけることで得するのがイスラム過激派じゃ、パレスティナをハマス政権にのっとられた失敗の二の舞だ。

そこでムシャラフへの牽制・対抗馬として、まちがってもイスラム過激派の旗手などになりそうも無い、ブットを送り込む。

ところがブットのカムバックのどさくさにまぎれて1999年以来亡命していたシャリフまで戻ってきてしまい、パキスタンは政情不安の下降スパイラル。しかも来年早々には総選挙が控えている。選挙の結果で政局混沌...なんてことになってしまったら、とてもじゃないがオサマ捕縛...なんておぼつかない事態だ。

ここにいたってブットを捨て駒にし、暗殺の黒幕としてのイスラム過激派への憎悪で国民感情を統一させるという青写真を誰かが書いたとしても不思議じゃないような気がするのだが、どうだろう。

実際に引き金を引いたのがイスラム過激派だとしても、こんな絵を描いた人間は違うところにいる気がする。

タイトルにした「Blowback」とはCIAの隠語で、秘密作戦の影響で不測の結果が生じることをいう。たとえばアフガン戦争における対ソ連ゲリラ支援がアルカイダを産んだような事態だ。

この言葉が初めて使われたのはパキスタンのおとなり、イラン。1950年代。民主的に選ばれた首相モサデックのイラン石油産業の国有化運動に対抗して、パーレビ国王を担いだCIA主導のクーデターを起こしたのだが、結果としてこれがホメイニ師のグループによる反米イスラム原理主義クーデターの遠因となってしまった。

ここらへんに興味がおありの方はドキュメンタリー映画「Why We Fight」(2005)をどうぞ。

パキスタン人はもっと視野を広く遠くもって自国の進むべき道を考察しなきゃだめだ。このままではいつまでたっても貧しく、他の国に利用されるだけの国ということになってしまう。

Christmas Idol

以前のエントリーでお話していながら、顛末を記していなかったので、念のため。

12月第1週に当地Foreign Correspondets' Clubで行われたオフィスのクリスマス・パーティー。各グループの代表による「タレント・ショー」の余興に出演してまいりました。

本当は各グループのなかで5番目の出番のはずだったLegal & Compliance代表の私とジョン君。

「私たちのボスが『一番最初はだめ』っていうので...お願い...代わってくださるかしら...」

と営業部隊のお姉さんに頭下げられて、あっさり、

「あぁ...いいですよ...」

と言ってしまった。

ジョン君、

「ボス~...なにデレ~ッとしてんですか...。本当に大丈夫なんですか、先頭で...。」

「う、うるさいなぁ~...オレに任しとけ...。」

てな具合で本番へ。全員着席のディナーが一段落し、お酒も回ってきた良い按配のころ。

われわれの出し物はジョンと私がケアしているアジア・太平洋州のそれぞれの国から代表的な歌を1曲づつ選んできて、そのサビを歌うという趣向。それぞれの曲のサビ部分をつなげたトラックを我がマックで作っておいた次第は以前お話したとおり。

まずは香港。曲は以前ご紹介の「獅子山下」。私が出だしを歌い、ジョンがそれを受け、サビを合唱。私の広東語の歌唱力に拍手が沸き起こる。エッヘン、プイ! ジョン相手にかなり練習したのだ。

ついで中国。世界的に有名な代表的中国歌謡曲というのが思いつかなかったので、ストレート直球勝負で中華人民共和国国家、「義勇軍行進曲」。五黄星旗もって紅衛兵よろしく部隊を行進。

つづいてシンガポール。さすがに何も思いつかなかったので、ジョンが口にしていたガム(シンガポールでは発売禁止)を吐き出す...手はずだったのが、ジョン...

「...いけね、わすれちゃった...」

...使えねぇなぁ...。

次にオーストラリア。こちらはカンタス航空のコマーシャルでおなじみ(らしい)、「I Still Call Australia Home」という曲のさわりを私のソロで。こんな感じの曲です。


続いて、おとなりのニュージーランド。オーストラリアで綺麗な曲を使ったので、こちらもマオリのラブソング「ポ・カレカレ・アナ」でもやろうと思ったのだが、やはりコントラストを考えて、ミュージック・トラックに約15秒のギャップをいれ、その間私がステージ中央でニュージーランド・ラグビーのハカをソロで熱演。

次は赤道をひとっとびして韓国へ。ここはジョン君がソロで韓国のRain(ピ)の真似(つもり)でステージを踊りまくるという...はずだったのだが、なんかジョン君、なれないステージでの緊張と興奮の限界だったらしい。突然なにを考えたのかニューヨークから出張中だった審査員役の本社役員の前に躍り出て、どちらかといえばRainというよりパパイア鈴木という感じで腰をフリフリしながら必死のアピールをはじめた。

そんな過呼吸寸前のジョンをなだめすかしてステージ中央に引きずり戻し、台湾へ。ここはお約束のテレサ・テン(鄧麗君)の「月亮代表我的心」の一番を合唱。

オーラス。日本。香港人中心の観衆に事前調査をしていたのだが、やはり音楽的にはこれが一番インパクトがあるということで、「東京ラブストーリー」から「ラブ・ストーリーは突然に」の出だしをボリューム大きめに流し、鈴木保奈美の写真(当時)をプリントアウトしたヤツをお面にしてかぶった私と、織田裕二のお面をかぶったジョンがステージ中央で抱き合う...。

それにしても「ラブストーリー」以来、日本の文化には見るべきものが無い、何も発信してきていない、ということなのだろうか。まぁ「ラブ・ジェネレーション」だとか「ロング・バケーション」だのというサジェスチョンもあったのだが、それも古いよな...。 (しかし、じつのところ1989年から11年間日本を留守にしていた私はここら辺の時代の日本文化をリアルタイムで経験していないのだ。)

最期はワムの「ラスト・クリスマス」をBGMに拍手、お辞儀、退場。

結果としては(手前味噌で恐縮だが)、大ウケ。いや、バカウケしてしまった。その他のグループが無難に「クリスマス・キャロルの合唱」だとか「いつもお客さんの前でやっているプレゼンのパロディー」なんてのをやっているなかで、ここまでバカに徹した我々の潔さがうけたらしい。

もっとも最優秀賞は「営業グループ」がもっていった。ジョンは「八百長だ!」などといってプリプリしていたが、私は彼らの出し物を見ていないのでなんとも言えん。なぜならあの晩の私はステージを降りてすぐにオフィスに戻り、ニューヨークに電話しなければならなかったからなのでした。

翌日のオフィスでは、いままで言葉を交わしたことも無かった人々が口をそろえて、

「いやぁ、昨日のはよかったよ。」

かくして「クソマジメな日本人」という私の猫かぶりのかぶり物は永遠にぶち壊されたのでした。

Thursday, December 27, 2007

Jet Scream

♪遠い地平線が消えて、ふかぶかとした夜の闇に心を休める時、
はるか雲海の上を音もなく流れ去る気流は、たゆみない宇宙の営みを告げています...♪

...懐かしい城達也さんのナレーション。中学3年生で高校受験勉強に明け暮れていたころ、深夜12時に、このナレーションがラジオから流れてくると、

「おぉ...今晩もオレ、がんばっちゃったな...」

などと自己満足したものです。

...いまから考えると...イヤミでキザで可愛くねぇガキだねぇ...。

城さん亡きいまではスネークマンショーで城さんをパロってた伊武雅刀さんがナレーションしているらしい。

今月初め、香港-東京-シンガポール-香港、というスケジュールで出張があり、東京-シンガポールをJALで飛びました。

しっとりと...昔を偲びながら...ジェット・ストリーム...

などと思ったのですが、実際はJAL名人会で三遊亭圓歌師匠の「圓歌の道しるべ」を何度もリピートして聞きながら、周りの客の迷惑も省みず声を上げて大笑いしていました。

「わたしが『落語家になる』って言ったらわたしを家から追い出したうちの親がなぜかわたしの家に住み着いた...と思ったら、死んだカミさんの両親、今のカミさんの両親...家の中6人もジジィとババァだらけになっちゃった...みんな朝が早ぇんだ、これが。そして朝から家の外ウロウロ歩き回る。家の前の道でタクシーがバァさん引きそこねて、運ちゃんが『オイ!気をつけろい!車に引かれてぇのか!』と怒鳴ったら、うちのババァ、『なんだとぉ...昔は人が車を引いてたぞ!』...だって。」

♪満天の星をいただく、はてしない光の海をゆたかに流れゆく風に心を開けば、
きらめく星座の物語も聞こえてくる、夜の静寂の、なんと饒舌なことでしょうか。
光と影の境に消えていったはるかな地平線も瞼に浮かんでまいります。
日本航空があなたにお送りする音楽の定期便ジェットストリーム 皆様の夜間飛行のお供をするパイロットは私、城達也です...♪

Monday, December 24, 2007

Gift from the Wise Men


昨年、クリスマス・カード代わりにアル・ゴアの「不都合な真実」を送ってくれた、プライヴェイト・エクイティ・ファンド、テラ・フィルマ社のガイ・ハンズさん。


今年のプレゼントはガルブレイスの「The Great Crash of 1929」でした。


カスタム・メイドのページには「Northern Rock」と看板を掲げた家の煙突から現ナマを注ぎ込むサンタさんのイラスト。


相変わらずタイムリーな人だ。


Monday, December 03, 2007

千里走単猪 (外伝之一)

アヘイ君が、

「結婚していますか?」

と聞くので、

「しているよ。」

と答えたら、すぐさま

「子供は何人いますか?」

と聞いてきた。

「う~ん、娘が二人に息子が一人...」

と答えたら、

「フォーチュン、フォーチュン」

と言う。

こっちはすっかり、「フォーチュン」、つまりは「大金」と言っているのかと思って、

「たしかに金かかるなぁ...。」

とつぶやいたら、アヘイ君、

「ノー、ノー...フォチュネット、フォチュネット...」

と言っている。

どうやら

「あなたは結婚している上に、一人っ子政策が厳しい中国に比べて子だくさんで幸せ(fortunate フォーチュネイト)だね。」

と言いたかったらしい。

智恵子抄じゃないが...あどけない独身中国人男性の家庭願望の話である。

Sunday, December 02, 2007

選挙!
















旅行記の続編更新が滞っていますが、実はオフィスのクリスマス・パーティーでリーガル・コンプライアンス部を代表してパフォーマンスすることになってしまい、その準備に追われているのです。別に自らすすんで、

「やります」

と言ったわけではないのですが、知らない間に

「新人なんだから、みんなに顔覚えてもらういい機会でしょ...」

とご指名。

いままでオフィスではネコかぶっていましたが、こういうことには必要以上にはりきってしまう私。むりやり共演者(共犯者?)としてスカウトした部下のジョン君と一緒にアイディアを出し合い、リハーサルしています。(ガラス張りのオフィスのなかで振り付けしているオヤジ二人...。)

そんなこんなで、最近すっかり「愛」を感じてきたマイ・マックを使いながら、パフォーマンスのBGMのミキシングに励んでいる今日、日曜日...なのですが...昨日の7人制ラグビーで亜脱臼した左肩が痛い...腕があがらん。今週水曜日の本番...踊れなかったらどうしよう...などと37歳のオヤジが「北島マヤ」みたいなこと言ってもしょうがないのですが...。

個人的には、そんなアホな週末を過ごしておりますが、当地香港の世間さまは今日は大騒ぎです。といいますのも、今日は香港特別行政区の議会にあたる立法会の補欠選挙の投票日なのです。

議席は香港島選挙区。立候補者はたしか8名ぐらいいるのですが、本命と対抗がなかなか魅せる組み合わせなのです。

本命は(上記写真左)アンソン・チャン(陳方安生...「方」が本人の姓で「陳」は結婚相手の姓のようです...未確認)。最後のイギリス香港総督クリストファー・パッテンの下で女性として初めて官僚トップの布政司となり、返還後北京に任命された董行政長官と折り合いが悪く野に下った。香港における普通選挙の早期実施を求める民主派。

対抗は(上記写真右)レジーナ・イップ(葉劉淑儀...同上...多分)。董行政長官の下、公安担当の官僚トップとして公安関連法律の導入で民主派と対立。デモ騒ぎに発展したため2003年、失脚。その後海外留学を経て、今回政界へ打って出てきた。支持母体は北京よりの政党「民建聯」。普通選挙に関しては、時期をみて導入という立場を取る慎重派。

テレビでは公開討論会番組がにぎわい、各立候補者それぞれ街頭演説や「桃太郎」(街頭を旗立て練り歩き)をしている映像を流していた。

「いや〜、ついに中國民主主義の夜明けかね〜...」

と中国人の友人に言ったら、彼は

「いや、大多数の人は今まで雲の上の存在だった政府高官が、みんなに頭下げている姿を見て、珍しがって興奮しているだけだよ...」

とクールな回答。

ま、たしかにご両人とも昔だったら「科挙状元」の才女。そんな見方もできるのかもしれない。

しかし毎日2万人以上といわれる中國本土から香港訪問中の人たちは同じ情景をどうみているのだろう。

投票日前の支持率はアンソン僅差でリード。今晩いったいどうなることか...。

Tuesday, November 27, 2007

千里走単猪 (其之三)

アヘイ君の英語はなかなかお上手だった。

だいたい外国語をしゃべる人には二通りあって、ただ単語の羅列から出発した片言言葉をしゃべる人(現状 における私の中国語のようなもの)、そしてちゃんと系統だってしっかりと文法を学んでいるひと。番目グループの人は語彙こそ少なく、意思伝達、感情表現の能力に劣るかもしれないが、聞く方の人間に話し手の知性を感じさせる。アヘイ君は後者だった。昆明の観光業の専門学校でアメリカ人から英語を学んだらしい。

「結婚しているの?」

ときくと。

「いやぁ...とてもとても...結婚するにはお金がかかるんですよ...今時の女は家と車がない男に は見向きもしませんからね。それが今じゃ車も家も高くなっちゃって...とても僕には手が届かないし...車持っていたって最近じゃガソリンの値段が高いし、ガソリンスタンド自体がガス欠なんてことも
時々あるんですよ...」

なんか身の上を聞いただけなのに、現在中国が抱える社会経済問題をその一身に背負ってしまったようなア ヘイ君。

(あぁ...やっぱり言葉は通じなくても美人のほうがよかったか...)

などと思ってみても後悔先に立たず。

石林は確かに天下の奇観。絶景ではありました。しかしそれ以上に私を驚かせたのは、中国人観光客の多さ。人、人、人...どこを観ても人だらけ。これ皆、ほとんど、99.9%中国人。これでオフピークだというのだから、ピークシーズンになったらどんな人出になるのか、想像もつかん。



[民族衣装でコスプレに興じる観光客]



















石林の岩道を上ったり、下ったりして一回りしたところで、「お約束」のお土産屋さんにつれてこられた。

怪しげな英語をしゃべる店のおじさん(彼の英語はアヘイ君の逆の片言タイプ)にお茶をすすめられ、書画を眺めていると、見覚えのある漢字の羅列が...

「月落ち鳥啼き...って、オイオイ...これは楓橋夜泊じゃないか。なんでこんな場違いな詩が雲南くんだりにあるんだ。蘇州ならわかるけどさ...」

「おぉ、この詩をご存知ですか。お客さん、学がありますねぇ〜...」

(いけねぇ...お茶飲んでさっさとお邪魔しようと思っていたのに...てめぇの半端な教養と見栄っ張
りが災いの元だぜ...)

「あぁ、お客さん...よく中国文化をご存知のあなたに、うちのプロフェッサーが書を差し上げたいと申しております...」

よくみると土産物屋の奥の方で、広い机にむかってお茶を飲み飲み芸術本を読んでいた老人が、やおら二本の筆を両の手にとり、半紙に向かっている。

(ますます、いけねぇな...)

老人は左右の筆を器用に交互に使いながら四文字を書きあげた。

「お客さん、どうですか?読めますか?」

「藝無国境...芸術に国境は無い...」

「おぉ...すばらしい...」

(てやんでぇ...くせぇ言葉書きくさりやがって...)

「プロフェッサーはお客さんにこの書を差し上げると言っております。いえいえお代はけっこうです。でももしここにある書や絵をお買い上げになるのであれば、お値段安くしおきますよ...」

(そらきた...)

「それでは、書にお名前を書かせていただきますので、こちらにあなた様のお名前を...」

「あぁ...だったらうちの息子の名前にしていただきますか。名前は麟...」

「おぉ...それでしたらご子息にもう一つ書を...プロフェッサーもよいと言っております。いえいえ...もちろんお代は結構です。でも、もしここの書画を...」

(しつこいな〜)

「それでは墨が乾くまでこちらでお待ちください...どうですか...この水墨画もプロフェッサーの作です。もしお望みでしたらお値段はお安くしときますよ。」

「はいはい分かりました、分かりました。負けました。それじゃここの竹の掛け軸をお願いしますよ...ほんとにもう...」

「ありがとうございます。このお金は地元の学校に寄付されますので...」

(本当かよ...)

結局掛け軸二つ(竹の水墨画と私の姓名を読み込んだ七言絶句)を持たされて土産物屋を後にしたのでした。

見事に土産物屋と「プロフェッサー」の連携プレイにやられてしまった私。

掛け軸2本をデイパックに突っ込み、アヘイ君に誘われるまま中国人観光客の団体をかきわけかきわけ石林風景区のなかをすすむ。

しばらくすると、民家風の建物の前につれてこられた。

土産物が並ぶ入り口を通り抜けると、八畳ぐらいの個室が通路を挟んで左右に並ぶ作りになっている。その個室の一つに入ると、今度はお茶の試飲。

オイオイ...また買わせるの?

私とアヘイ君だけを相手に、民族衣装の女性がまずは一杯...と迎賓茶(だったかな?)という緑茶だか白茶を注いでくれる。おぉ...爽快じゃ。

次に名産のプーアル茶。でもなぜか普通のプーアルと違って、発酵前らしく、色が薄い。うむ...美味じゃ。

引き続きウーロン茶、紅茶...と全部で六種類ぐらいのお茶を入れてくれる。最後の方のお茶はどうも甘くてかなわなかった。なんか変なもんがまじっていそうだ。

「どれが気にいったか、って彼女が聞いています...」

とアヘイ君。

(そらきた...)

と思いつつ、

「この発酵前のプーアル茶かなぁ...」

というと、プーアルの茶筒を持ってくる。値札には200元と書いてある。

「これ、あなたには特別に100元で売ります...」

...買っちまった...。

中国での値切り交渉はまず言い値の半額というのが鉄則らしいが、いきなり向こうから半額にしてきたのに面食らって、つい財布のひもを緩めてしまった。

それにしてもいい加減な値段設定だな...。

わざわざ試飲室を個室に分けているのも、ふっかけられる客にはとことんふっかけようという魂胆からなのだろう。

密室各個分断殲滅商法...ってか?

なんかすでにカモられるのにすっかりなれてきてしまった私は、目の前に並んだ茶で一服しながら個室の壁を眺めてみた。そこには大きなポスターがあり、「雲南三宝」と書いてある。ポスターの写真はいろいろな農場施設を視察する前共産党書記長、江沢民氏の姿。雲南省の「三宝」とは、お茶、タバコ、そして漢方薬の三七という植物の根らしい。

なんかいまいちパッとしない特産品だ。

いくら工場生産拠点が沿海部から内地に移ってきているとはいえ、雲南省のような交通の便の悪い奥地で、特産品がお茶とタバコと漢方薬じゃ中国の他の地方のような派手な経済発展は望めないだろう。市内の交通渋滞には厳しいものがあったが、去年訪れたヴェトナムのホーチミン・シティーやハノイのようなギラギラした活気はない。結局この地は観光産業に頼らざるを得ないのだろう。

この日、半日わたしにつきあってアヘイ君の手取りは80元。市内の庶民的な飯屋で食べた定食がだいたい5元ぐらいだから、生活には困らないだろうが、確かに家や車のようなインフレの影響をまともに受ける贅沢品には手が届きにくいのだろう。

そんな彼の目の前で100元のお茶を「はいよ」と買ってしまったことに一抹の理不尽さを覚えながら、今度は茶の販売所の隣の竹で作られた民家につれていかれた。そこは20畳ぐらいの土間になっており、古ぼけたはた織り機や、農作業の道具が陳列されていた。

他の五・六人の中国人観光客の男性と一緒に、木の切り株を使った小椅子にこしかけていると、小柄な民族衣装を着た女の子がマイクを持って突然早口の中国語でなんかの説明を始めた。

「なんだ、なんだ...おい、アヘイ君、いったい何が始まるんだ?」

と隣に座ったアヘイ君に尋ねたところ、背後から唐突に女性の嬌声がわき起こった。

「うぁ〜、何事じゃ!」

と振り向こうとしたとたん、駆け寄ってきた女の子数人に後ろから頭にアヘイ君がかぶっているような帽子をかぶせられ、ハート型の布製ペンダントが着いた首飾りをかけられ、チャンチャンコのような民族衣装のベストを着させられ、紅いうす絹でできたスカーフを手渡された。

私や他の観光客の「着せ替え」が終わると、女の子たちはキャーキャーいいながら、裏の広場に駆け出した。

「ほら、好きな女の子を捕まえて、そのスカーフをかぶせるんです!」

というアヘイ君。

なにがなんだか分からないうちに、しょうがないので立ち上がり、広場へ駆け出し、手近にいた女の子にスカーフをかぶせた。するとその女の子が私の手をぐいぐい引っ張って広場の先の別の建物の中に連れて行く。そこにはマイクをもった男性がいて、またなにかを中国語で説明しはじめた。

また小椅子に座らせられた私の横に膝まづいたくだんの女の子がなにか早口で私の耳につぶやき始める。

なるほど...どうやらこれは当地サミ族の婚礼儀式のデモンストレーションらしい...とやっと気がついた私。

ということはこの女の子は私に妻としての貞節の誓いの言葉をつぶやいているのかしらん...いやいや、この強引さから察するにどうやら私に夫としての義務を宣告しているのかもしれん...。

やっと状況把握ができはじめたところで今度は細いベンチのような腰掛けに女の子と一緒に立たされ、彼女の肩を抱きながらベンチから落ちないように彼女と立ち位置をいれかわる儀式。

これが終わってまた腰を下ろすと、今度は目の前にニュッと酒盃が突き出され、なんか白酒のようなものを飲まされる。

キュッと酒盃を干すと、これは親族代表役のような女の子たちが、背後から手を出してきた。なんじゃ、なんじゃ、と思って他の観光客の様子をみると、どうやらこいつらにご祝儀のお金をあげなきゃいけないらしい。しょうがないので、ポケットから札入れを取り出すと、彼女たちの手がウワーッと札束に群がる。

なんだかんだで300元ほどの出費。

トホホ...

目の角でアヘイ君の姿を探すと、思いがけない災難に遭っている私をうらやましげとも哀れみととれるまなざしで眺めているアヘイ君の姿がそこにあった。

そりゃそうだ。彼が半日かけて稼いでいる金額を彼女たちはこんなばか騒ぎに参加することによって観光客から巻き上げているのだから。

女系社会なわけだよな...。

集団カツアゲが一段落すると、女の子はまた私の手を引っ張って、他のめでたく婚礼相成った観光客たちと一緒に手を取り合ってスピーカ−から流れてきた音楽に合わせてフォークダンス。なんか半ばヤケになって気合い入れて踊ってしまった私。

これで結婚式パフォーマンスは終わり。

なんかグッタリ...。

[大騒ぎのヤラセ結婚式を斜に見ながらサミ族風水パイプをふかすオヤジ。竹をくくりぬいた中に水が入れてあり、普通のタバコを吸い口に挿して吸うらしい]












[昼飯で食べた蜂。蜂の子というのは聞いたことがあるが、これは子供だけじゃ無くて親の成虫も混ざっている。蜂の親子丼?]

Monday, November 26, 2007

千里走単猪 (其之二)

一泊目の投宿先を昆明翠湖賓館にしたわけは、このホテルに邱永漢さんが自ら出資した雲南コーヒーの店、「Q's Coffee」を出店しているからだ。昆明でトップクラスのこのホテルは昆明の市民憩いの場、翠湖のほとりに立っている。

たしかにごリッパなホテルだ。しかし翠湖の方は以前訪れた杭州の西湖同様、あまり感動しなかった。安っぽい中国風の東屋が点在し、そこらここらで中国人たちが集まって歌ったり踊ったりしている。なにやら元紅衛兵みたいな中年集団が勇ましい歌を歌っているのを遠巻きに眺めつつ、30分も歩き回ったところで早くも食傷気味。さっさとホテルに引き返し、くだんのコーヒーをごちそうになることにした。

コーヒーは確かにうまかった。酸味が上品。でもあともうちょっとコクが欲しいところ。しかしコーヒーより感心したのはお店のウェイトレスの接客態度が驚くほど洗練されていたこと。中国人従業員相手にここまで教育を徹底させているということに、関係者の努力が偲ばれる。コーヒーだけならどこでも手に入る。しかし、こうした上質のサービスを一世代前までは「接客サービス」という概念が存在しなかった中国に根付かせた功績は尊い。「ものつくり」と「ひとつくり」の結晶だ。さすが。

そんなこんなしているうちに、夜になってしまった。市内観光は後日とし、ホテル内を散策。ジム、プール、サウナにマッサージのサービスがあるというが、昨年のヴェトナムでの経験からあまりこういう場所で自分の局部を初対面のオバチャンにいじられるのはゾッとしないので、敬して遠ざけさせてもらう。


ホテルの3階にバーがあるというのでのぞいてみたら、超豪華ケンランな中国風ナイトクラブだった。ようするに大音響カラオケとダース単位のホステスおねえちゃんがはべる場所。エレヴェーターの扉が開いたとたんに、閲兵式よろしく左右に並んだおねえちゃんたちが一斉に中国語で

「いらっしゃいませ!」

(多分...)

と叫んだのに怖じ気づいてしまい、こっちもパス。

フロントで翌日の石林行きのタクシーを予約し、もう一泊する旨を伝え、館内の中国レストランで點心喰って(通常メニューは終わっていて夜食メニューだった)、この日は終わり。

翌朝8時に予約したタクシーに乗り、世界遺産の石林へ向かう。ガイドブックでは昆明から1時間ちょっとの距離。しかしタクシーは昆明市の朝のラッシュアワーにつかまり、市街地を出るのに一時間かかってしまった。市の環状道路(多分)の交差点にあたる場所では、「大理」だとか「貴陽」、「重慶」と書かれたミニバスたちが客待ちであちこちに路上駐車していて、渋滞を悪化させている。排気ガス汚染がものすごい。車の窓をしめきっても、排気ガスのにおいが鼻の奥を刺激する。

なんとか市外に脱出。

観光に力を入れている雲南省。さすがに昆明と石林をつなぐ「昆石高速道路」は快適な道だった。しかし道路脇に書かれている交通標語らしきものの存在は解せなかった。もちろん中国語なのだが、横書きの文章は、日本語同様、左から右に書かれている。中国では車は右側通行なので、道路の右側の壁に書かれている標語は、車の進行方向の一番遠いところからその文章が始まっているのだ。ようするに、車を運転しているものは文章のケツから読み進めていくことになる。もしかしたら反対車線の車に読ませるために書いてあるのかな、とも思ってみたが、中央分離帯の生け垣のせいで、反対車線の車からこっち側の壁の標語は読めない。まぁ、国はちがっても行政のムダというものはどこにでもあるものなのだなと納得。

約2時間かけて石林に到着。タクシーは石林入り口そばの飯屋の前につけた。

(あぁ、多分タクシーの運ちゃんとグルなんだろうな~)

と分かっていても、別に怒る気もしない。彼らも、もちつもたれつなんだろう。

車を降りたとたんに飯屋のオバチャンが飛び出してきて、どうやらコーヒーを進めているらしい。それじゃ失礼して...とお世辞にも美味くないコーヒーをすすっていたら、

「今日のあなたのガイドです!」

と当地少数民族のサミ族の民族衣装をまとった女性を紹介された。

頭を巡らせてガイド嬢をみると、これが超弩級美人。な、な、なんなんだ、なんなんだ!と思わず取り乱す私。スラっと背が高く、しなやかにのびた四肢に、流れるような白い民族衣装がよく似合う。色白の肌に、形のよい鼻梁。ぱっちりとした目。婉然とした微笑みを浮かべてこっちを見ている。

(あ、ありがとうございます!邱センセー!!やっぱりあなたは正しかった!!!)

思わずポーッとしてしまったが、ハッと思い返して、片言の中国語で、

「英語はなせますか?」

と聞いたら、

「ダメ」

とのお答え。

約3秒間ほど苦渋の思案をした後、

「すいません。英語のできる人お願いします...」

これを聞いて、美女は「プイッ」と去っていってしまった...。

One that got away... (写真だけでも取らせてもらえばよかった...あぁ...)

代わりに登場したのが、この御仁。

英語がしゃべれるガイド。

男性。

当年24歳のアヘイ君(アヘイとはサミ族の言葉で「男の子」という意味の普通名詞らしい)。

なんか幸先悪るい様な気がしてきた...。

Sunday, November 25, 2007

千里走単猪 (其之一)

そういうわけで(どういうわけだ?)中国旅行いってきました。

妻子のロンドン滞在が長引き、一人で家でくすぶっているのもあきあきしてきましたし、ラグビーもクリスマス前の試合を消化。今出かけなきゃ、12月は仕事で出張が続く予定なので、今年分の有給を使い切れない。そんなこんなで「え~い、ままよ...」と旅の空を目指すことにしたのです。

普段は腰が重い方なのですが、ときおりこのようにやむにやまれぬ「漂泊」の思いが突き上げてきます。Wanderlustというやつですな。去年も突然思い立ってフランスにいっちゃったっけ。

さて行き先はどうしよう。

妻は「タイでもいってくれば」といってくれたのですが、秋空の香港で未だに汗ばんでいる私ですので、暑そうな国にいくのは乗り気じゃない。いろいろ思案したあげく、以前から気になっていた「雲南」に進路をとることにしました。北京とか上海であれば、これからもいく機会は折々ありそうですが、さすがに雲南は自分で縁を作らなきゃ一生いけそうもないので。邱永漢さんも、そのネットのコラムで「一年中春めいた気候で美人が多い」とおっしゃっていたので、以前から頭の片隅にとどめおいたのです。ま、「美人」はあくまでオマケということで。

まるまる一週間休みをとり、銀行口座とカードの残高を確認し、飛行機のチケットを予約。いちおう英語のガイドブックを買い(後で分かったのだが、これがイマイチ使えない)、初日と最終日のホテルだけを予約して、レッツ・ゴー!

だいじょうぶだろうか...なさけないことには、未だに中国語全然しゃべれんのじゃ、ワシ。

(一応フレーズ・ブックみたいなのを一冊バッグにねじ込んでいきましたが、結局あまり使わなんだ。)

出発前の金曜日、ここ二ヶ月間しごいてきた香港人部下のジョン君に「あとをたのんまっせ」といったら「お土産は雲南名産のプーアル茶をよろしく。あと少数民族の女には気をつけてください。あいつら女系家族だから気がつよいですよ。」などと言われてしまった。すっかりうちとけてしまったのう、ワレ。

出発当日。荷物は貴重品用のデイパックとトラベルバッグのみ。自宅からタクシーで香港国際空港へ。30分で空港に着く。この簡便さ。何度も言っているが、我が祖国の成田空港にくらべると涙が出てくる。

雲南省の省都、昆明行きのドラゴン(港龍)航空の飛行機は...小さい...ま、二時間弱の旅程だもんね。

さらば香港...と窓の外の景色を観るうちに、なぜか無性に顔が笑ってしまふ。まだ飛行機に乗ったばかりで離陸もしていない。だが、旅に出るときの押さえがたい高揚感が自然と顔に出てしまう。やはり葛飾出身の私には「寅さん」のDNAがはいっているのだらうか。

「さくら...兄ちゃんは旅に出るよ...。」

高校時代に暗記した芭蕉の「奥の細道」の序が頭をかすめる。

「月日は百代の過客にしてゆきかう年もまた旅人なり...」

そんなこんなとりとめもないことを考えているうちに眠ってしまった。

気がついたら、飛行機は昆明めざして降下中。あれよあれよという間に着陸。おいおい。早いよ。オレの気持ちはまだ香港なんですけど。

ちょっと情けないが一泊目のホテルに迎えの車を頼んでおいた。なんか憧れていたんです。あの空港の到着出口で自分の名前が書いてあるカードをもって待っていてくれるというやつに。なんか特別に歓迎されている気がしませんか(オレだけか?)。

まったくアホだが、出口でたむろしている中国人の集団をなるべくさりげなく(しかしドキドキしながら)眺めると、一泊目の昆明翠湖賓館の兄ちゃんがホテルの制服を着て私の名前のカードを持って立っていた。

正直「ホッ」とする。到着したとたんに空港で迷子なんていう情けない事態は避けられた。

兄ちゃんにトラベルバッグをもってもらい、駐車場へ。屋外に出たとたんに物陰から物乞いの女の子が飛び出してきた。小学校低学年ぐらいだろうか。薄汚いピンクのセーターを着て垢に汚れた手の平を差し出す。よくみたら少女が飛び出してきた方向に彼女の母親らしき人物が他の2・3人の子供たちと一緒に座っていて、出てくる旅行者を指差して子供たちに

「そら、いっておいで...」

みたいに指図している。

オリンピックを控えた中国では、こういう物乞い、乞食のたぐいに厳しい態度で臨んでいると聞いていたが、さすがに雲南くんだりまでは中央政府の威令は行われていないのだろうか。しかも空港出口のすぐ外で、警官がウヨウヨしている場所だ。

まぁ乞食が乞食して糊口をしのげて、彼らが犯罪者化していないということは、それなりに社会が豊かであるという証左でもある。もっとも警察が法令にかかわらず、その存在を容認せざるを得ないということは、社会の貧困階級が厳然として存在しており、権力者にしてみればなす術がないということの証明でもある。中国共産党も大変だね。

手の平を突きつけてくる少女をなるべく視界に入れないように、目を伏せてホテルのベンツに乗り込む。私も海外生活が長いが、いまだに「甘ちゃん」日本人である私にとって、こういう貧富の差がはっきりとした構図に自分が当事者として出演してしまうのには未だに慣れない。

あまり性急な比較は避けるべきだろうが、日本のホームレスが社会の「落伍者」であるのにくらべ、中国のこうした少年少女は自分たちが「落伍」したのではなく、もともと「落伍」した階級に生まれ出てしまったのだ。

彼らが成人するころには中国の貧困層は救われているのだろうか。中国社会が日本なみの豊かさを享受するためには、中国経済は今の10倍規模に成長しなければならないという。

前途未だ遠し、である。

(つづく)

Wednesday, November 14, 2007

Hugh Jackman

最近気になる俳優、Hugh Jackman。(日本語のファンサイトはこちら









初めてその名を聞いたのはKate & Leopold(邦題...「ニューヨークの恋人」...)のころ。なんかは初めて聞く名前に初めて見る顔で、「ははぁ...さてはメグ・ライアンちゃん、トム・ハンクスにふられたな...」ぐらいにしか考えていませんでした。



その後、「X-Men」で狼男のWolverineをやることになった、と聞いても、

「フ~ン...売りだ出し中なのね...」

ぐらいにしか思っていなかったのですが ...



実は彼がもともとはミュージカル出身と聞き、ネットで検索してみたら... もともと母国のオーストラリアで「美女と野獣」のガストン役で世に出たらしい。

そしてオーストラリアでロイド・ウェバーの「サンセット大通り」の準主役。



この役でイギリスの有名舞台監督、Trevor Nunnの知己を得て、Nunnのイギリスのナショナル・シアターの「オクラホマ!」で主役、カーリーに抜擢。これが大当たり。


彼のハリウッドでのキャリアはここまでの大活躍のオマケだったわけだ。

その後、オーストラリア出身の歌手、Peter Allenの生涯を描いたミュージカル「The Boy from Oz」の主役をブロードウェイでつとめてこれが一大センセーションになったとか。その年のトニー賞をかっさらった。


この2004年トニー賞でのパフォーマンスはすごい。




その翌年の2005年トニー賞でのパフォーマンス。



う~ん...歌って、踊れて、演技ができる...そして「華」がある俳優。なんかスクリーンに閉じ込めるのがもったいないぐらいだ。こんな俳優、フレッド・アステア、ジーン・ケリー以来じゃないか?

とにかく今、注目しています。できたら映画はもういいから、舞台やってくれ~。

Tuesday, November 13, 2007

Self-Depreciation is the Most Gracious Form Humour

Dolly Parton on Whitney Houston's success with "I Will Alaways Love You", a song originally written by Parton:

"It was my song, it was her record, and it made us both rich. I will always appreciate her - I made a lot of money, and I need a lot of money, because it costs a lot of money to look this cheap."

Monday, November 12, 2007

Talladega Nights

独りモンの映画鑑賞、その4

Talladega Nights: The Ballad of Ricky Bobby」(2006年作品)
映画の公式サイト

初めから違う映画の話で恐縮だが、今年の夏、アメリカで「Hairspray」という映画が公開された。50年代のアメリカを舞台にしたミュージカルの映画化なのだが、このミュージカルのオープニング・ナンバーが「Good Morning Baltimore」(おはようボルティモア!)という曲。主人公の太目の女の子が歌うこの曲。「ボルティモアはすばらしい町、毎日チャンスがあふれているわ〜」みたいな曲なんだが、この曲を例えばニューヨークのブロードウェイの舞台で聞けば、ミュージカル作者の皮肉というかアイロニーが伝わると思う。ボルティモア...全米でデトロイトに次いで危険な町らしい。人口の22% が貧困層...。

でもこのミュージカル映画が、例えば日本や香港なんかで公開されるころには、観衆はそのアイロニーを理解しない、またできないと思うんだよね。

ミネソタあたりの中西部アメリカ人でもこうした皮肉は解せないんじゃないだろうか...。

本題に戻りますが、このTalladega Nightsも、そうした「もしかしたら観衆に理解されていない皮肉」がてんこ盛りな映画です。

最近売り出し中のコメディー俳優、Will Ferrellがカーレースのドライバーを演じる。このカーレース、NASCARというストックカー・レース。最近アメリカでアメリカン・フットボールに次ぐテレビ視聴者数を稼いでいるという。前回の大統領選挙では「サッカー・マミーにNASCARオヤジ」ということで、アメリカのハートランドの中流家庭の代名詞になったぐらい。(つまり子供たちにサッカーをやらせるお母さんと、休日は家でカーレースをテレビ観戦するオヤジということ。)

NASCAR自体、ノース・カロライナ州に端を発しており、アメリカ南部を中心に盛んです。

ようするに、まぁ早い話、誤解を恐れずに言えば、ブッシュ大統領のコアな支持者層とNASCARファンはかなり重なるわけです。

そしてこの映画。NASCARの興奮を描きながらも、その背景となるアメリカ・カルチャーを散々ばかにしまくっているのです。

主人公のリッキーはひょんなことからNASCARのドライバーになるのですが、これがマイケル・ムーアさんがいうところの「バカでまぬけな白人アメリカ人」の典型。やたらと神様とジーザスの名を連発するわりには、食前のお祈りでは宗教無知をさらけ出し、しかも食べるものはファースト・フードばっかし。なにが何でもナンバー1にこだわり、勝つことのみに価値観を見いだしている。そんな彼がゲイでフランス人のドライバー(演じるのは「Borat」のサーシャ・バロン・コーエン...爆笑!)に破れて打ちのめされ、ニューエイジ趣味なお母さんの助けで復活する...というのがあらすじ。

よくもまぁバカにしまくったりという感じです。

リッキーがフランス人ドライバーに組み伏せられるシーン。

「『オレはクレープが好きだ』と言え。じゃなきゃ腕をへし折るぞ。」
「いやだ!絶対言わないぞ。」
「そうだリッキー、いっちゃだめだ。フランス野郎の言いなりになるな。」
「おぉ!でも『クレープ』ってなんだ?」
「あのうすいパンケーキのことだろう。」
「あぁ、あれか。あれオレ大好きだ。」
「そう。アメリカ人、『クレープ・スゼット』を知っているか?」
「なんだそりゃ。」
「うすいパンケーキに砂糖とレモンをまぶしたやつだ。」
「あぁ!あれオレもう大好物!」
「ほら、だったら『オレはクレープが好きだ』といえ。」
「いやだ〜!」

フレンチ・フライをフリーダム・フライと改名したアメリカ人を彷彿とさせますな。

「アメリカ人、オレがなぜアメリカにやってきたか分かるか。」
「公立学校教育と水道水の質、そしてブッシュ大統領の叡智。ほかの移民たちと同じ理由だろう?」

この映画DVDの特典がふるっていて、キャスト・スタッフのコメンタリーが映画公開の25年後ということになっている。

「いまミズーリ州に住んでいるんだって?最近そっちはどうだい?」
「ご存知のように、地球温暖化によりミズーリ州の大半水没しています...。」

またDVDの冒頭にはこんな断り書きが...

「この映画の内容はソニー、およびソニー・ホーム・エンターテイメント社の意見を反映するものではありません...」

一見の価値はある映画です。

Sunday, November 11, 2007

Love Actually

独りモンの映画鑑賞会、その3

Love Actually」(2003年作品)

「イギリス万歳」

...ってな感じの映画です。大好きです。

監督・脚本はリチャード・カーティスさん。いうなればイギリスの三谷幸喜さんですね。

オックスフォード大学在学のころから「ミスター・ビーン」ことローワン・アトキンソンと親友で、そのころから彼と一緒にコメディー・スケッチを作成していたらしい。

その後、TV向けシチュエーション・コメディー(Sit Com - シットコム)の作成を企画し、不朽の名作「Blackadder」シリーズを世に送り出す。1980年代に一世を風靡したこのシリーズ。主役のエドマンド・ブラックアダーはシリーズを通じて旧友のミスター・ビーンがこれを勤めた。第二シリーズから脚本作りに参加したのは、これまた80・90年代イギリスを代表する「サヨク」系コメディアン、ベン・エルトン。

私がイギリスに流れ着いたのは1989年だったので、大学での同級生は皆この「ブラックアダー」シリーズとともに育ってきた世代。話を合わすためにも、テレビの再放送を見たり、シリーズ常連の俳優の名前を覚えたりしたものです。(ヒュー・ローリースティーブン・フライリク・メイヨルなどなど...)

もちろんカーティスさん、「ミスター・ビーン」シリーズにもプロデューサーとして携わってきました。

その後カーティスさんは映画「フォー・ウェディングス」(1994年作品)の大ヒットで映画界進出。次の「ノッティング・ヒル」(1999年作品)は本人も言うように「4年近くかけて脚本を書いていたのに、映画ができてみたらフォーウェディングスそっくりの作品になっていてガックリ...」。

その後、ブリジット・ジョーンズの脚本製作にも参加したりしながら、ついに自ら監督・脚本でメガホンを取った(日本映画界な表現だな)作品がこれ。

ようするに、今イギリスの第一線で働いている世代の人たちは、みんなカーティスさんのユーモアと共に育ってきたようなものなのです。

この映画に出演している俳優さんたちも、もう皆さんお馴染み。笑えるのはこの映画の出演者と、あのイギリス俳優総出演シリーズ、「ハリー・ポッター」の出演者がメチャクチャかぶっているということ。まぁさすがにヒュー・グラントやコリン・ファースはハリー・ポッターに出ないだろうけれど...この二人は「ブリジット...」つながりだし。

そう考えてみると、この映画の登場人物たちの複雑な友人・恋人関係は、実際における俳優たちの過去の出演作品を反映しているようなものですな。

個人的にはこの映画の時分、まだ自意識過剰に陥っていなかったころのキーラ・ナイトレー嬢が好きです。

おまけ。歌が上手くて可愛いオリヴィア・オルソン嬢。

Saturday, November 10, 2007

Teacher and Pupil

独りモンの読書遍歴、その2。

日本歴史を点検する」対談海音寺潮五郎/司馬遼太郎 1974年講談社

このころの司馬さんは謙虚だったんだなぁ...。

アイゼンハワーの軍産複合体に関する批判を取り上げているあたり、さすがは海音寺先生です。

Friday, November 09, 2007

Yoritomo

独りモンの読書遍歴。

永井路子著「つわものの賦」初版発行1978年 文藝春秋

ニューヨークから帰ってきて以来、どうも「身辺整理」が趣味になてしまった。どうも今現在の私の人生のテーマは「身軽」らしい。

そんなわけで、訪米中お蔵漬けになっていた本を一冊づつ持ち出してきては、手放すべきか座右におくべきかを思案しているのだが、さすがにここ五・六年の度重なる引っ越しのお供をしてきた蔵書には捨てがたいものが多い。

この本もそんな本の一つ。

永井さん、大好きです。

歴史文学における女性の視点というのは、もっと注目されていいと思う。あまりに大雑把な言い方は避けるべきだろうが、どうも男の視点から論じる歴史は戦争と権力あらそいの描写に終始してしまい、結局は登場人物の心象風景がおざなりになり、結果それらの人々の行動の動機付けが曖昧になり、歴史そのものが生きてこない。マンガ道でいうところの「キャラが立たない」わけですね。

結局、歴史文学はいうに及ばず、歴史の研究にも「人間性透察」の能力は欠かせないと思うわけです。

尊敬する海音寺先生は、もちろんこの偉大なる例外になるわけだけど、その海音寺先生も薩摩隼人の男気が先にいきすぎてしまっているような印象を受けるときがままある。これはもう個人のすき好みの領域かもしれないが、海音寺先生の「謙信びいき」はこのひとつで、たしかに「義」の為に「後に続け〜」と単騎で越後から関東に馳せかけてくる戦国武将の姿には感銘するが、私はこの手の戦争屋は好かんのだ。

そんなわけで、永井さんや、杉本さん、そして最近では塩野さんなんかの著作は貴重だなと思うわけです。

のっけから話がずれましたが、この本は永井さんが「炎環」「北条政子」で文壇デビューして以来、自家薬籠中のものとしていた「源平/鎌倉時代」に関する彼女の結論的「史伝」です。

以前は「頼朝の旗挙げ」、「源平戦争」、「鎌倉幕府の創設」という年表的かつ表層的扱いをされていたこの時代を「東国武士の勃興」、「東国、西国、奥州の多層的権力構造」というテーマで捉え、頼朝、後白河、北条義時、三浦義村らの主要登場人物の人間性に深く切り込んでいます。

誰だったか忘れましたが、「鎌倉時代以前の歴史は日本の歴史ではない」といった人がいたとか。たしかに平安王朝貴族の文化・文明はその後の日本の歴史からみれば異質なものかもしれませんが、この論調で「日本の古代」を完全に否定してしまうのもちょっと乱暴がすぎるとも思えます。

それよりも注目すべきは「鎌倉幕府」に象徴される武家政治の登場により、日本において初めて「生産者階級」による政権が登場したことでしょう。「鎌倉武士」はその後の戦争屋的性格を深めていった戦国武将や、官吏的な江戸時代の武士とも違い、その基本は「開拓者」であり「一所懸命」の地主階級。戦乱となれば「いざ鎌倉」で駆けつけますが、普段はみずから汗を流し家ノ子、郎党を指揮して農事に励む親分さんなわけです。

こうした「武士」社会の掟が、外来の建前の概念に基づいて成立され、歴史の流れの中で形骸化した律令制度にとってかわり、のちに北条泰時の手により「御成敗式目」となった次第はみなさんご存知の通り。

泰時は後に、「朝廷の方々のいわれるような難しいことは知らないが、この式目の内容は我々にとっては『道理』となっているものだ。だから自らの無知に臆することなくこれを示せ。」と言ったという。(下に参考までにこの「泰時消息文」の読みくだし文と現代語訳を載せときます。)

そしてこの「道理」を法源とする式目の効力は、明治維新により近代法治国家が生まれるまで存続したのである。

(赤穂浪士の「喧嘩両成敗は御成敗式目以来の云々」という台詞はここからきているわけですね。なお、徳川家康は「吾妻鏡」を座右の書としていたらしい。)

今の時代にも「道理」の政治を行ってくれる人が欲しいところ。

個人的に吾妻鏡の中で一番好きなシーンは、頼朝の征夷大将軍任命の勅使応対役を承った三浦義澄が勅使に名を尋ねられ、

「三浦ノ次郎」

と名乗ったという一段。本来であれば義澄には「三浦介」という官名があったのだが、あえて勅使に対し律令制度の下の官名を名乗らず、坂東風に名乗ったわけだ。これに対し、吾妻鏡は「面目絶妙」と評している。

なんかヤクザが仁義を切っているみたいなところもありますが。

思えば私の永井さんとのおつきあいは高校生の時が最初だったのかもしれない。日本史の授業で担当の柴田先生が鎌倉の八幡宮での実朝暗殺の段になって突然熱の入った謎解き(暗殺の黒幕は誰だ!)を披露してくれたのを今でも鮮明に覚えている。あれは永井さんが提唱した説だったのだなとわかったのは後のこと。

暗殺の黒幕をお知りになりたい方は、この本を手にとって読んでみてください。

この時代、個性的に過ぎてアクの強そうなキャラがたくさんいるが、やはり一番尊敬できるのは武家政治の根本を築いた北条義時と泰時の親子、そして義時の弟、時房でしょう。北条家は1333年(イチミサンザンなどと覚えたっけ)に新田義貞に率いられた軍勢に滅ぼされますが、その想像を絶する謀略と腹黒さ(?)の歴史とは裏腹に、この一族は代々清貧で過ごしたらしい。(末期の奢侈に関しては後醍醐側のプロパギャンダとの説が有力。)彼らの政権が滅んだ理由は、時代ととも発達した経済環境についていけなかったということが大きいのでしょう。最後は高時はじめ一族郎党ともども七百人余が鎌倉の谷(ヤツ)で見事自害に及んだとのこと。北条家というものが、それだけ最後まで支持されていた政権の担い手だったという証左ではないでしょうか。(鎌倉の腹切りやぐら(東勝寺の址)は必見スポット。霊感の鋭い人には怖いかもしれませんが、ちょっとゾッとします。)

私個人的には、清貧でありながら政敵にはとことんアクドイ、さりながらゴリッパな北条さんちも面白そうですが、この時代で興味のつきない人物はやはり頼朝でしょう。12・3の歳に平治の乱の敗戦により、恐怖の逃避行、親兄弟の横死、死刑を一等減じられ流刑...などなどのトラウマを経験しながら、正妻のヒステリーにもめげない立派なスケベ親父に成長し、ガラの悪いやくざの親分衆みたいな東国武士に担がれながら、煮ても焼いても食えない政治家に大成したこのおじさん。会ってみたら面白そうです。私のイメージでは大河ドラマ「草燃ゆる」で石坂浩二さんが演じていた頼朝が印象に残っているのですが、最近の「義経」では中井貴一クンが頼朝をやっていたみたいでしたね。

「みずしま...もとい、よりとも〜。一緒に日本...京に帰ろう!」

...ネタが古いか。

しかし奥さんの妊娠中の浮気はよくないね。

ちなみに上の絵は前田青邨画伯の「洞窟の頼朝」。旗挙げの後、石橋山での戦いに破れ伊豆山中を逃げ回り洞窟に隠れた頼朝主従の群像です。負け戦にグッタリという風情の中で独り眼光鋭く、うっすらと不敵な笑みさえ浮かべているような頼朝の表情。好きな絵です。

この後、主従は二手に分かれて伊豆を脱出し、海路房総半島に向かうのですが、その途上相模湾か東京湾海上で主従再会します。その様子を同じ青邨画伯が絵にしたのがこれ。


ちょっとまとまりがなくなってきたので、ここら辺でおわり。









貞永式目 唯浄裏書本{ゆいじょううらがきぼん} 

さてこの式目をつくられ候事は、なにを本説{ほんせつ}として被注載之由{ちゅうしのせらるるのよし}、人さだめて謗難{ぼうなん}を加ふる事候歟{ことにそうろうか}、ま事にさせる本文にすがりたる事候はねども、たゞどうりのおすところを被記{しるされ}候者也。かやうに兼日{けんじつ}に定め候はずして、或はことの理非をつぎにして、其人のつよきよはぎにより、或{あるいは}御裁許ふりたる事をわすらかしておこしたて候。かくのごとく候ゆへに、かねて御成敗の躰{てい}を定めて、人の高下{こうげ}を論ぜず、偏頗{へんぱ}なく裁定せられ候はんために、子細{しさい}記録しをかれ候者也。この状は法令{ほうりょう(律令)}のおしへに違するところなど少々候へども、たとへば、律令格式は、まな(真名)をしりて候物のために、やがて漢字を見候がごとし。かなばかりをしれる物のためには、まなにむかび候時は人の目をしいたるがごとくにて候へば、この式目は、只かなをしれる物の世間におぼく候ごとく、あまねく人に心えやすからせんために、武家の人への計らひのためばかりに候。これによりて京都の御沙汰、律令のおきて聊{いささか}も改まるべきにあらず候也。凡法令のおしへめでたく候なれども、武家のならひ、民間の法、それをうかゞひしりたる物は百千が中に、一両もありがたく候歟。仍諸人しらず候処に、俄に法意をもて、理非を勘{かんがえ}候時に、法令の官人心にまかせて軽重の文どもを、ひきかむがへ候なる間、其勘録一同ならず候故に、人皆迷惑と云々、これによりて文盲{もんもう}の輩{ともがら}もかねて思惟し、御成敗も変々ならず候はんために、この式目を注置{ちゅうしおかれ}れ候者也。京都人々の中に謗難を加事{くわうること}候はゞ、此趣を御心得候て御問答あるべく候。恐々謹言{きょうきょうきんげん}九月十一日
武蔵守在
駿河守殿


さてこの御成敗式目を作られたことは、何をよりどころにして書いたのかと、きっとそしり非難する人もあろうかと思う。たしかにこれというベきほどの典拠によったことはないが、ただ道理(武士社会での慣習・道徳)のさし示すことをしるしたのである。このようにあらかじめ定めておかないと、あるいはことの正しいか誤っているかを次にして、その人の強いか弱いかによって判決を下したり、あるいは前に裁決したことを忘れて改めて問題にしたりすることがおこったりしよう。こんなわけだから、あらかじめ訴訟の裁決のあり方を定めて、人の身分の高い低いを問題にすることなく、公平に裁判することのできるように、こまかいことを記録しておくのである。この式目は、律令の説くところと違っている点が少しあるが、例えば、律令格式は、漢字を知っている者のために書かれているので、ほかならぬ漢字を見ているようなものである。かなばかりを知っている者の為には、漢字に向った時は、目が見えなくなったようになるので、この式目は、ただかなを知っている者が世の中に多いこともあって、ひろく人の納得しやすいように定めたもので、武家の人々の便宜になるように定めただけのことである。これによって、朝廷の御裁断や律令の規定が少しも変更されるものではない。およそ律令の条文は立派にできているが、武家や民間でそれを知っている者は百人千人の中で一人二人もいないだろう。そこで、人々の理解していないところに、にわかに法律の立場で理非を考え、法律を司る役人が自分の判断で、律令のあれこれの法令を適用するので、その判決は同じでなく人は皆迷惑すると聞いている。これによって、文字の読めないものもあらかじめ考えることができ、裁定のあり方もいろいろ変わることのないように、この式目がつくられたのである。京都の人々の中で、非難する者があったら、この趣旨を心得て問答しなさい。貞永元(1232)年9月11日 
武蔵守在
駿河守殿

Thursday, November 08, 2007

Hubris

むかし西洋人は、

「鳥目で近眼の日本人に飛行機の操縦はできない」

といっていたらしい。

最近の日本人は、

「日本人が開発した高度な製造技術は日本の文化に根付いたもので、中国人には真似できない」

などといっているらしい。

そのむかし室町のころ、中国の官窯の陶器のコピーを必死になって作っていた歴史を忘れてしまったみたいですね。

中国の怪しげなミッキー・マウスもどき、ドラえもんもどきの遊園地を笑う日本人は、日本の天下り役人が経営する遊園地の殺人ローラーコースターのことをどう思っているのだろうか。少なくともコピー・キャラの着ぐるみのせいでお客さんが死ぬということは無いだろう。(着ぐるみの中の人の労働環境に関しては心もとないが...。)

製造業に携わっていない人に限って、

「日本はものつくりの国だから」

なんて言う。

そういえば「ものつくり大学」なんてのを作ったらあっというまに汚職の温床になってしまっていましたっけ。覚えている人いるかな...。

そんなかけ声ばかりの「ものつくり」が日本国内のメディアで幅を利かせている裏で、日本の製造業は拠点をどんどん海外に移していっている。そうした現場で活躍できる人、価値がある人とは、「ものつくり」の本来の精神を現地の従業員に伝えることができる人たちだ。

ようするにこれからの時代は「ものつくり」と同時に「ひとつくり」の才能が求められている。

この国際化社会・世界的大競争時代に場違いな、そして偏狭で不健康な国粋主義的「ものつくり」の優越性を主張している場合ではないのだよ。

Wednesday, November 07, 2007

In The Name Of God...

ゴアさん...まだ生きていたのね...。

Tuesday, November 06, 2007

Monday, November 05, 2007

Ambition's Debt

いろいろとこの人の周辺が騒がしいが、テロ特対法の期限切れの一番大事な意味合いは、日本が国連安保理事会の常任理事国入りを実質上あきらめたことを世界に向けて発信したということでしょう。

後になって「そんなつもりは無かった」「別の方法での国際支援を考えていた」なんて言ってみても、給油活動の継続を望んでいた国々が次回日本の常任理事入りを支持するとは思えないし、日本の常任理事入りに反対する国々にしてみれば絶好の反対理由を作ってしまったということだ。

「国際平和活動を国内の政局の取引に使うような国は信用ならん」

といわれたら返す言葉が無いでしょうに。

前から言っているが、凡人に「国家百年の大計」を語らせるのは到底無理だとしても、せめて10年先を見た政治をしてもらいたいものだ。

もっとも、ここ数年の内に総理にならなければ心臓がもたない可哀想な人にこんな期待は無理か。

どうせなるようにしかならねぇってことよ...。

Friday, October 26, 2007

Le Hussard sur le toit

独りモンのマイナー映画鑑賞、その2.

Le Hussard sur le toit」(1995年作品)

1990年に大作「シラノ・ド・ベルジュラック」でヒットを飛ばしたジャン-ポール・ラプノー監督が、

「オレって...もしかして時代物が得意なんじゃないかい?」

と、いうわけで取組んだ時代劇(英語ではよく"コスチューム・ドラマ"なんて言い方します)第2弾。

題名の直訳は「屋根の上の軽騎兵」。英語の題名もそれを受けて「The Horseman on the Roof」だったのですが、いつもながら邦題は...。

あぁ...なんということだぁっ!

「プロヴァンスの恋」

...いったいどこをどうひねったらこういうネーミングになるのでしょうか。たしかにお話はプロヴァンス地方のエクス・アン・プロヴァンスで幕を開けますが、後はずっと仏伊国境沿いの山岳地帯が舞台です。まったく、いったいなんでたって何でもかんでもお昼の不倫メロドラマみたいな題名をつけるのだろう?まぁ、もっとも不倫の恋のお話ですが。

(でも「屋根の上の...」なんていったら日本のお客さんは森繁のテヴィエじいさんを思い浮かべてしまいそうだな...。)

お話は、早い話が「ロード・ムービー」。

1832年。コレラが大流行するフランスで偶然出会った若い男と女。男はイタリア解放を夢見る革命の志士にしてピエモント王国騎兵大佐、アンジェロ・パルディ。女は侯爵夫人ポーリーヌ・ド・テウス。追っ手とコレラと感染隔離しようとするフランス軍兵士を逃れる二人の運命はいかに?!

しかしまぁ、フランス人ってこの手の

「若い男と年上の女」

という構図が大好きですな。


映画的には、このころが多分

「旬、真っ只中!」

だったジュリエット・ビノシュお姉さまが見所...オレだけか...いやそんなはずは無い...抑えた演技と、時々見せる「フレンチおばさん」の匂いたつ色気がただ事ではありません。もっとも「フレンチおばさん」の賞味期限は「赤福」なんてメじゃないぐらいなもんですが。

相手役のオリヴィェ・マルティネス君もなかなか見せてくれます。

でも多分この映画で一番美しいのは、背景となるフランスの風景でしょうね。初めてこの映画が封切られたとき、映画館で見ましたが、たしかにこの映像美には圧倒されます。

Battles Without Honor And Humanity

こんな記事がありました

「米兵の身柄要求見送り=任意捜査を継続-女性集団暴行容疑・広島県警」

以前も述べましたが、日本人の場合、痴漢したのしないのウヤムヤなところでは躍起になって「落とす」ことに執着するくせに、アメリカさんの場合ですととたんに及び腰になるわけです。

昔はこういう人たちを「国賊」と呼んでいましたが、いまではなんと呼ぶのでしょうかね。

広島の事件のようですが、戦後なぜ広島ヤクザが天下に名をとどろかせるにいたったのか、県警はもう忘れてしまったんでしょうか。そんな疑問もこめて、このエントリーにこのタイトルを選ばせてもらいました。

要するに、肝心なときに国民を守ってくれない国家権力など「いらない」ということです。

「平成の平安貴族」である日本の官僚は、自分たちの「地位」に胡坐をかき、そのシステムを保全することに汲々としていますが、鎌倉武士このかた日本人の行動規律は「御恩に奉公」だということを忘れてはなりません。「御恩」として当然のことをしてくれない権力者に「奉公(納税)」は無用だということです。

Wednesday, October 24, 2007

Gettysburg


来月まで家族が戻ってこないので、自宅で無聊を慰めるためにこんな映画をまた眺めています。

Gettysburg」(1993年作品)。

前回登場のTed Turner氏がファイナンスした映画です。

1975年のピューリッアー賞を受賞したMichael Shaaraの歴史小説の映画化。題材はいうまでも無く、アメリカ南北戦争の「関ヶ原」。1863年7月1日から3日までの3日間にわたってペンシルヴァニア州ゲティスバーグ周辺で行われた戦い。

監督のロナルド・マックスウェルは小説を一読して感動し、すぐさま映画化を目指したものの、15年間もあちこちの映画会社に断られ続けていたところに、Turnerさんが救いの手を差し伸べたのだとか。

もともと南部(ジョージア州)出身のTurner氏にとって、南北戦争というのは特別な意味を持っているらしい。

ちなみにTurner氏、映画の最後、ピケット将軍指揮下のヴァージニア師団の突撃シーンに登場します。しかもその役が「パットン大佐」。あの第二次世界大戦のパットン将軍のご先祖様。銃弾飛び交う中、銃剣きらめかせた南部兵士の隊列の前にたち、

「Let's Go, Boys!」

と叫んだとたんに弾に当たって死んでしまう。

エグゼキュティブ・プロデューサーなのに、こんなんでいいんかい?

以前も取り上げましたが、南北戦争というのは現在のアメリカのありようの基礎になっている歴史の1ページですので、もっと映画の題材として取り上げられてもいいはず。しかしその重要性のために、かえって政治議論の標的になってしまうということもあり、ハリウッド映画業界ではタブー視されているのだとか。

偉大なる例外は「風とともに去りぬ」ですね。

以前ご紹介のゴア・ヴィダルさんに言わせると、南北戦争とはアメリカにおける「イリアッド」なのだとか。


映画作品としては、主だったキャラクターを演じる役者さんたちが、それぞれ気合の入った演技を見せてくれるのがおいしいところ。特にメイン州第20連隊指揮官のジョシュア・チェンバレン大佐を演じるジェフ・ダニエルズと、リー将軍を演じるマーティン・シーンが出色。リー将軍の右腕、ジェームズ・ロングストリート将軍を演じるトム・べレンジャーなんて、これがあの「メジャー・リーグ」で、セガレのほうのチャーリー・シーンとじゃれていた役者と同一人物とはとても思えません。(まぁ、メイクでつけている途方も無いサイズのヒゲのせいもありますが。)

それを言えば、ジェフ・ダニエルズだって実写版「101匹ワンちゃん大行進」の役者と同じ人には見えません。

最後の突撃を前に南部の兵士たちがマーティン・シーン/リー将軍を取り囲み「リー!リー!リー!」と意気を上げるシーンは実は偶然の産物だったという話。エキストラとして大挙して参加していた南北戦争コスプレ愛好家たちが、突然現れたマーティン・シーンを観て大興奮。彼を取り囲んで「マーティン!マーティン!マーティン!」とやり始めてしまったのをスタッフが「どっきりカメラ」よろしく撮影していたらしい。だから良く観ると兵士たちの口の動きは「リー」ではなく「マーティン」といっているのが分かる...とか。自宅でDVD観ながら確認してみましたが、どうもはっきりそれとは分かりませなんだ。

印象に残ったこと。

DVD特典のスタッフによるコメンタリー付ヴァージョンを眺めていたら、リサーチャーの人の、

「ピケット将軍の正面突撃は成功していたかもしれない。」

という一言が頭の片隅に残った。

どうやら正面突撃の前に行われた南部砲兵隊による一斉射撃の照準精度がもっと高ければ、勝負は分からなかった、という話。

結局、南部の技術・テクノロジー面でのお粗末さが勝敗を分けたということか。

なんか吉田満氏の「戦艦大和ノ最期」にも通じるような教訓ですな。

Tuesday, October 23, 2007

Ted Turner

CNNの創設者、Ted Turner氏。

一度会ってみたい人です。




こちらは友人のSPG君のためのクリップ。ターナー氏とカール・セーガンのインタビュー。



Thursday, October 18, 2007

A Season Too Far I (ラグビーまだやってます)

自分ではあまり気がついていなかったのですが、私はどうもアマノジャクらしいです。

家族の「お出かけ」に出発するまでは一番気乗りせず、腰が重かったりしますが、目的地に着くと一番はしゃいでいたりします。

かれこれ20年近くなるラグビーとのお付き合いにしても、この例外で無く、私はつい最近まで、

「オレ、ラグビーが好きだ!」

と口にして言うことには、憚りがありました。私の心の中ではあくまでも、

「いや~ほかにやりたいスポーツも無いし...」

というスタンスだったのです。

そんなわけで、昨シーズンの最終試合の後、夏のオフ・シーズンをニューヨークで過ごし、ヨガをちょっとかじった程度でなんもしていなかった私。口では妻に、

「いやぁ...オレももうラグビー引退だね...ワハハ...今度はゴルフだ...」

などといっていたのですが、香港に「帰港」した9月21日金曜日の翌日、22日土曜日にはもうラグビーしてました。

しかもまた2部リーグ...37歳のオジサンとしてはリーグのレベル落としたかったんだけど...。

9月22日

対HKCC(アバディーン)戦
ルース・プロップでスタートするも前半30分でリタイア。暑い...苦しい...ナサケネェ...
試合も大敗。

9月29日
対Valley戦
前半開始直後に立て続けにトライを決められ、「コリャ大敗パターンか...」と思ったら、持ち直し、なんと試合終了直前に逆転トライを決めて勝利。個人的には前週に比べてがんばったが、最後5分のところで「こむら返り」。リタイア...。ナサケネェ...

10月6日
対Dragons戦
昨シーズンの私の古巣チームが1部リーグからリーグを落としてきた。
同じクラブの2軍チーム。セオリーでは3軍チームである我々よりも強いはず。それでも何とか踏ん張り、接戦。惜敗。個人的にもやっとフル出場でチームに貢献できた。ヤレヤレ...。

そんなわけで、今シーズンもがんばります。目標は無故障。

どうやら私はラグビーが好きなようです。

Thursday, October 04, 2007

Boom Town

香港の景気がいい話をしたが、どうやら本当に景気がいいらしい。

ラグビーの練習の後、ヘッドハンターの人と話していたら、ニューヨークから香港での就職を希望する人たちの履歴書がわんさか来ているらしい。

ついにアジアの時代の到来か。

もっとも同じラグビーつながりの香港人の友人と景気の話しをしたら、

「早く次のクラッシュが来ないかな~...今の様子じゃ投資できないよ...。」

などと物騒な、でもみんな考えていることを大きな声でしゃべっていた。

おりしも香港市場がコーポレート・ガバナンスでアジアナンバー1に輝いたらしい。順位は香港、シンガポール、インド、台湾...そして5位にやっと日本。

インドと台湾に負けてんのかよ...トホホ...。

しかも圏外ながら中国が「よくがんばりました」評価なのに、日本の評価はネガティブ。

やはりトンカツ・ソースのせいか...。

Wednesday, October 03, 2007

Duke's Lesson

もうかなり前の話になってしまうが、Economist誌にデューク大学ラクロス・チームのレイプ事件顛末の反省記事が載っていた。

レイプ事件というのは、ラクロス・チームの大学生選手たちが乱痴気パーティーでストリッパーを呼んだところ、そのストリッパーが後日選手たちにレイプされたと訴えて、選手たちが刑事裁判にかけられたのだが、ストリッパーの女性の証言がじつはいい加減だったことがばれて、検察側の主張がデタラメだったことが明らかになった事件のことです。

どうやら同じパーティーで「お仕事」していたほかのストリッパー女史が、レイプなどなかったことを証言していたのに、「被害者」の女性が黒人であり、まぁ大学生スポーツ選手の乱痴気パーティーなどまちがっても褒められたことではないこともて手伝って、功名をあせる検事が無理失理裁判を推し進めてしまったらしい。

また事件に感情的に反応した大学側や、学生団体、そしてメディアもこぞってラクロス・チームを批判した。

Economistも同じく選手側を批判した記事を掲載したらしい(未確認)。

結果...冤罪。

しかし訴えられた側からしてみれば、

「どうもすいませんでした」

ではすまない話だろう。

同志社大ラグビー部の事件はどうなっちゃったんだろう。

ちなみに沖縄の米海兵隊兵士がレイプ事件を起こしても、沖縄県警は米軍兵士を逮捕できない。日米安保に基づく日米協定の下、在日米軍兵士には治外法権が認められている。米軍側に言わせれば、日本の警察の捜査基準が人権保護の面で国際基準に達していないからだそうだ。

明治の先賢たちの血と汗と涙の努力によって覆した不平等条約が、敗戦によって再び押し付けられていることを自覚している日本人はどれくらいいるのだろうか。そしてそうした非難に対してなんら対応しない日本の警察権力は、その怠慢が国益と国の体面を損じているということに気がついていないのだろうか。

Tuesday, October 02, 2007

One If By Land, Two If By Sea

One If By Land, Two If By Sea

17 Barrow Street
New York, NY 10014
212-228 0822

http://www.oneiffbyland.com/

ニューヨークのグリニッジ・ヴィレッジでロマンチックなディナー...といったらこのレストランらしい。

6アヴェニューあたりの喧騒から離れたわき道にあるレストランの建物は、18世紀末~19世紀初頭の馬小屋だったらしい。しかも私がゴア・ヴィダルの小説を読んで以来ファンになったAaron Burrゆかりの建物だとか。レストランにもBurrと彼が決闘で殺した政敵のAlexander Hamiltonの肖像が飾ってあった。

回転率向上のためと思われるが、予約は6時か9時のどちらにしますか、と聞かれたのには興ざめ。しかし、かなり予約の時間に遅れてしまった私たち夫婦にも、いかにも「ゲイ」といった感じのウェイター氏は優しかった。

料理はなかなかいけてる。クラシック・アメリカンとでもいうのだろうか。たっぷりのスモークサーモンのスターターにここの名物らしいパイ皮で包まれたビーフ・ウェリントン。ボリュームはかなりあるのでお腹をすかしていくことが肝要でしょう。あのままデザートまで食べてしまったのは無謀であった。

ソムリエに進められたカリフォルニア・ソノマ産のピノも美味。

初めはお隣さんが、「結婚記念日にニューヨークに来ました」みたいな老夫婦で微笑ましかったのだが、第二クールで登場したのがいかにも「不倫しています」という感じのおじさんとコムスメで妻と一緒にズッコケてしまった。しかもこの不倫おじさん、自信が無いのか、余裕が無いのか、浮気するのが初めてなのか、妙に舞いあがってしまっていて痛々しかった。

「これ、プレゼント...あ、でももし気に入らなかったら、交換してくれるって店の人が言っていた...どう?気に入ってくれた?もしいやだったら交換できるからね...ね?...」

などと延々と一人で喋りまくっている。

コムスメも...まぁなんというか、最近話題のエリカ様風で...笑わさせていただきました。

ありゃいい反面教師だったな。

レストランの名前が妙ですが、これは独立戦争時にボストン駐留英軍の動向を知らせに走ったPaul Revereの活躍に取材した、ロングフェローの詩からとったものです。ちょっと長いですが、以下に転載。

Paul Revere's Ride
Henry Wadsworth Longfellow

Listen my children and you shall hear
Of the midnight ride of Paul Revere,
On the eighteenth of April, in Seventy-five;
Hardly a man is now alive
Who remembers that famous day and year.
He said to his friend, "If the British march
By land or sea from the town to-night,
Hang a lantern aloft in the belfry arch
Of the North Church tower as a signal light,--
One if by land, and two if by sea;
And I on the opposite shore will be,
Ready to ride and spread the alarm
Through every Middlesex village and farm,
For the country folk to be up and to arm."

Then he said "Good-night!" and with muffled oar
Silently rowed to the Charlestown shore,
Just as the moon rose over the bay,
Where swinging wide at her moorings lay
The Somerset, British man-of-war;
A phantom ship, with each mast and spar
Across the moon like a prison bar,
And a huge black hulk, that was magnified
By its own reflection in the tide.

Meanwhile, his friend through alley and street
Wanders and watches, with eager ears,
Till in the silence around him he hears
The muster of men at the barrack door,
The sound of arms, and the tramp of feet,
And the measured tread of the grenadiers,
Marching down to their boats on the shore.

Then he climbed the tower of the Old North Church,
By the wooden stairs, with stealthy tread,
To the belfry chamber overhead,
And startled the pigeons from their perch
On the sombre rafters, that round him made
Masses and moving shapes of shade,--
By the trembling ladder, steep and tall,
To the highest window in the wall,
Where he paused to listen and look down
A moment on the roofs of the town
And the moonlight flowing over all.

Beneath, in the churchyard, lay the dead,
In their night encampment on the hill,
Wrapped in silence so deep and still
That he could hear, like a sentinel's tread,
The watchful night-wind, as it went
Creeping along from tent to tent,
And seeming to whisper, "All is well!"
A moment only he feels the spell
Of the place and the hour, and the secret dread
Of the lonely belfry and the dead;
For suddenly all his thoughts are bent
On a shadowy something far away,
Where the river widens to meet the bay,--
A line of black that bends and floats
On the rising tide like a bridge of boats.

Meanwhile, impatient to mount and ride,
Booted and spurred, with a heavy stride
On the opposite shore walked Paul Revere.
Now he patted his horse's side,
Now he gazed at the landscape far and near,
Then, impetuous, stamped the earth,
And turned and tightened his saddle girth;
But mostly he watched with eager search
The belfry tower of the Old North Church,
As it rose above the graves on the hill,
Lonely and spectral and sombre and still.
And lo! as he looks, on the belfry's height
A glimmer, and then a gleam of light!
He springs to the saddle, the bridle he turns,
But lingers and gazes, till full on his sight
A second lamp in the belfry burns.

A hurry of hoofs in a village street,
A shape in the moonlight, a bulk in the dark,
And beneath, from the pebbles, in passing, a spark
Struck out by a steed flying fearless and fleet;
That was all! And yet, through the gloom and the light,
The fate of a nation was riding that night;
And the spark struck out by that steed, in his flight,
Kindled the land into flame with its heat.
He has left the village and mounted the steep,
And beneath him, tranquil and broad and deep,
Is the Mystic, meeting the ocean tides;
And under the alders that skirt its edge,
Now soft on the sand, now loud on the ledge,
Is heard the tramp of his steed as he rides.

It was twelve by the village clock
When he crossed the bridge into Medford town.
He heard the crowing of the cock,
And the barking of the farmer's dog,
And felt the damp of the river fog,
That rises after the sun goes down.

It was one by the village clock,
When he galloped into Lexington.
He saw the gilded weathercock
Swim in the moonlight as he passed,
And the meeting-house windows, black and bare,
Gaze at him with a spectral glare,
As if they already stood aghast
At the bloody work they would look upon.

It was two by the village clock,
When he came to the bridge in Concord town.
He heard the bleating of the flock,
And the twitter of birds among the trees,
And felt the breath of the morning breeze
Blowing over the meadow brown.
And one was safe and asleep in his bed
Who at the bridge would be first to fall,
Who that day would be lying dead,
Pierced by a British musket ball.

You know the rest. In the books you have read
How the British Regulars fired and fled,---
How the farmers gave them ball for ball,
From behind each fence and farmyard wall,
Chasing the redcoats down the lane,
Then crossing the fields to emerge again
Under the trees at the turn of the road,
And only pausing to fire and load.

So through the night rode Paul Revere;
And so through the night went his cry of alarm
To every Middlesex village and farm,---
A cry of defiance, and not of fear,
A voice in the darkness, a knock at the door,
And a word that shall echo for evermore!
For, borne on the night-wind of the Past,
Through all our history, to the last,
In the hour of darkness and peril and need,
The people will waken and listen to hear
The hurrying hoof-beats of that steed,
And the midnight message of Paul Revere.

ロングフェローのこの詩のおかげで有名になったPaul Revereさん。ところがRevereさんと同じくゲリラ活動をして英軍の動きを知らせていた相棒のWilliam Dawesさんの名前を知る人はほとんどいない。ということでそれを皮肉った詩が以下の通り。

The Midnight Ride of William Dawes
Helen F. Moore


I am a wandering, bitter shade,
Never of me was a hero made;
Poets have never sung my praise,
Nobody crowned my brow with bays;
And if you ask me the fatal cause,
I answer only, "My name was Dawes"

'Tis all very well for the children to hear
Of the midnight ride of Paul Revere;
But why should my name be quite forgot,
Who rode as boldly and well, God wot?
Why should I ask? The reason is clear --
My name was Dawes and his Revere.

When the lights from the old North Church flashed out,
Paul Revere was waiting about,
But I was already on my way.
The shadows of night fell cold and gray
As I rode, with never a break or a pause;
But what was the use, when my name was Dawes!

History rings with his silvery name;
Closed to me are the portals of fame.
Had he been Dawes and I Revere,
No one had heard of him, I fear.
No one has heard of me because
He was Revere and I was Dawes.

Friday, September 28, 2007

Kennst Du Das Land (君よ知るや南の国)

昔の日本人の名前に対する感覚というのはどうもつかみにくい。

「ナントカの守」とか「ナントカの介」なんてのはれっきとした官名だが、中央の朝廷・幕府権威が衰亡した室町中期・後期はみんな勝手にやりたい放題。どうもみんな好き勝手に語感がきにいったやつを自分で選んでいたみたいだ。いわゆる「受領名」というやつ。

織田信長は初期、有名な舅の美濃の斎藤道三との会見のとき、

「カズサノスケ(上総介)でござる」

と名乗ったらしいが、これは自称なんだろうか。初めて会う人に、

「千葉県知事です」

といってしまう感覚がすごい。まぁ当時の人にとっては「かざり」にすぎないのだから、別にどうともないのだろうが、明治のご一新このかたの中央集権国家に生まれた人間の感覚からはかなりずれている。

もっとも信長の場合はお父さんの信秀が当時としては奇特な勤王家で、朝廷に献金などしていたみたいだから、万年金欠状態にあった皇室から正式に(形だけだけど)任官していたのかもしれない。たしか上総の国は律令制度の下では「上国」で「守」は親王の専権職だから、信秀のオヤジが京のあばら屋住まいの食い詰め王子に、

「セガレの任官、これでひとつよしなに...」

なんて「水戸黄門」に出てくる悪徳商人みたいなことをいていたのかもしれない。

信長は後に天皇に上奏して部下の明智光秀や羽柴秀吉に日向守、筑前守を授かっているから、ここら辺の任官制度や朝廷交渉ということに関して早い時期から学習経験があったという推察もありだろう。

もっとも武家の棟梁が部下にかわって朝廷に任官を上奏し(そして個人の個別の申請を排除する)、ひいては任官業務(権威授与)を朝廷に代わり代行する、という手口は鎌倉殿こと源頼朝以来の武家政権やりかただけど。(はい、そこ、源九郎くん、ちゃんと聞いているのかね?!)

どの官名がいいのか...というか、どの官名にどんなイメージがあるのか(あったのか)というのもわからん。

ま、相模守なんていったら鎌倉北条家のイメージだろうし(北条時宗は相模太郎だもんね)、三河守は足利家のイメージ。秋田城の介なんていうと鎌倉時代の安達泰盛みたいな「幕府政権の懐刀」というイメ−ジなんじゃなかろうか。(信長の長子、信忠は城の介だった。)保元の乱の後、平清盛が讃岐守に任官したことを嫉妬した源義朝が、続く平治の乱の短命クーデター政権の下で讃岐守に任官しているところをみると、讃岐の国はよいところだったのだろう。うどんと金比羅様と溜め池by弘法大師...ですか...ま、京からも近いしね。

なんでこんなことを考え始めたのかというと、池波先生の「真田太平記」を読んでいて、

真田昌幸が安房守...セガレの真田源三郎信幸が伊豆守...昌幸の叔父、矢沢頼綱が薩摩守(頼綱の息子の三十郎頼康は但馬守)...なんかみんなトロピカルな国だな〜。

と気がついたから。

もしかしたら上州の山奥、雪に閉ざされた岩櫃城で家族一同、囲炉裏を囲みながら...

昌幸(丹波哲郎のイメージで):「ムフフ...、わしゃ『安房』じゃ。『安房』はいいぞぉ。房総半島の先っちょで、沖では黒潮がぶちあたるあたり、美味い海の幸が喰い放題らしい...。どうじゃ、源三郎...おぬしはどこがいい?」

信幸:「おそれながら、拙者は『伊豆」がよろしいかと...。お父上のおっしゃる海の幸はいわずもがな、別所の湯にも勝るとも劣らぬ、出で湯の地と聞き及んでおりますれば...。」

昌幸:「ムゥ...良いところに目をつけたの...。」

頼綱(加藤嘉のイメージで):「フォッ、フォッ、フォッ...おぬしらまだまだ甘いのぉ...どうせ南の国に参るのであれば、いっそこの日の本の国のいちばん南。『薩摩』じゃよ。芋焼酎にさつま揚げ。桜島の灰のおかげでおのれの白髪も目立たぬわい。」

昌幸:「さすがは叔父上...スケールが違いますの。して三十郎は。」

頼康:「...但馬...で...お願いします。」

昌幸:「それ、どこじゃ?」

信幸:「丹波のむこうですな。」

昌幸:「黒豆の先か...地味なヤツじゃ...。おい、源二郎(幸村)、おまえは?」

幸村:「...」

なんて「農協ツアー」のはしりみたいな会話をしていた...わけないか。

Thursday, September 27, 2007

Future of Civilization

ニューヨーク 滞在中にセガレが私のマシーン(Dell Inspiron 6000)をぶっ壊してしまい、おかげでポッドキャストの更新ができない状態だったのですが、帰港直前にアップルのMacBookProを購入。会社のコーポレート割引が利いたのでラッキー。

そこで久しぶりにポッドキャストを更新し、帰りの飛行機のなかでのんべんだらりと聞いてみたら、Discovery Channelのこのビデオ・ポッドキャストで目が覚めちゃいました。



加来道雄さん...すごい...

Wednesday, September 26, 2007

A Stranger's Homecoming

てなわけで、香港に帰ってまいりました。「帰港」です。

第一印象...

なんかすごく景気がいい。

周りの人たちの「鼻息」が荒い。

いけいけドンドン。

帰りの飛行機(NY-香港直行...17時間無制限勝負...ツラカッタ...)で通路を挟んだ隣の客が読んでいた香港の新聞に、

「大四喜」

という見出しがあったので、

(なんじゃらホイ...?「大三元」なら知っているけれど...?)

失礼を承知で漢字の羅列を眺めていたら、どうやら香港証券取引所で四つの新記録が出たらしい。つまり、

1.ハンセン(恒生)指数最高値記録

2.H株指数最高値記録

3.出来高最多記録

4.時価総額最高値記録

う~む...サブプライム問題でピリピリしてたニューヨークとはえらい違いじゃ。ニューヨークの金融マンたち...今年のボーナスは期待できそうも無いからね。

かたや中国もインフレ問題が顕在化してきている。

北京政府が打つ次の一手、次の次の一手、そのまた次の一手...で株価も乱高下しそうだ。

どうなるんだろう...。

...で、日本は...フ~ン...福田さんね...ま、どうでもいいや。

勝海舟じゃないが

「どうせなるようにしかならねぇよ。」

でしょう。

Monday, September 17, 2007

Celebrity Watching

ニューヨークで見かけた有名人...

真田広之

ある朝、通勤の途中、パーク・アヴェニューと56~58番街のどこかの角で、すれ違い。

「なんか、やたら色黒な東洋人がこんな暑い日にビシッとダーク・スーツでキメてるな...」

と、思いよく見たら、たそがれ清兵衛だった。

有名人オーラ度:60%


中村勘三郎、勘太郎、七之助

平成中村座の公演でニューヨーク入りしていた中村屋ご一行。

土曜日の休みに用事があってオフィスへ足を向けたら、オフィスが入っているビルの近くの日本料理屋の前ですれ違い。

遠くからでも、

「あ、背の低いオジサンが歩いてくる...。あ、勘三郎だ。」

と、わかりました。

「中村屋!」

とか

「平助!」(大河ドラマ「新選組!」で勘太郎が藤堂平助をやっていたので。)

なんて言ってみようと思いましたが、ご家族団欒のひと時だったようなので、遠慮しました。(その後、妻とリンカーンセンターへ観劇しにいきました。)

有名人オーラ度:80%


Christy Turlington

サイズが小さすぎたセガレの洋服を返品・交換しに妻がTribecaまで私を引っ張ってきたので、妻とセガレが洋服店に行っている間、自転車屋さんで時間をつぶしていたら、セガレぐらいの年の女の子とお手伝いさん風の黒人女性をつれた女性が子供の補助輪付チャリを引っぱりながらやってきた。

「お手伝いさんたぁ...金持ちなんだろうなぁ...」

と思って眺めていたら、サングラスをはずした顔のどこかに見覚えが...。

あとで妻に、

「ほら...あの...元スーパー・モデルで...ヨガやる...」

などと、もどかしさに5分ほど耐え抜いた後に、やっと名前が出てきた。

それにしても...まったく見事なまでにオーラなし。確かにスタイルが良くて、顔がメチャクチャ小っちゃい(オレの顔の二分の一?)けれど、あれだけのスタイルの人はそう珍しくはない。

やはりスーパー・モデルなんてぇのも、マーケットの需要という外因と、「自分ブランド」の確立と地道な仕事に対するビジネスの評価という個人の努力に尽きるんだろうな...と個人的に納得。

Sunday, September 16, 2007

InSPA World

日本人に欠かせないもの...それはお風呂でしょう。海外生活がそろそろ人生の50%を超えてきた私でも、お風呂が無い生活は...不可能ではありませんが、さみしいです。

シャワーだけでは「汚れ」は流せますが、「疲れ」がとれないのです。

そんなわけで、日本に帰国の際はほとんど必ず東京駅地下の東京温泉に行くのが私のお約束です。

長崎の隠れキリシタンたちが伝えてきた「和訳聖書」では、オリジナル通りマリアは馬小屋でイエスを産むのですが、その後すぐに宿屋のオヤジが出てきて聖家族のためにお風呂を焚く話になっているとか。

やはり日本人にとって風呂は欠かせないのでしょう。

香港では「まっとう」なサウナから、料金体系が表・裏ある「怪しい」風呂屋など、百花繚乱でしたが、ここニューヨークではどうもホテル付属のおしゃれな「SPA」しか見当たりませんでした。

しかし、ついに見つけました。

韓国系資本がオープンさせた、その名も「InSPA World」。

マンハッタン市内から地下鉄で30分ほどのFlushing。そこからまた送迎バスで約20分(しかも送迎バスの発着場所が不案内)という、距離的な不便さがイマイチですが、お風呂欠乏症に悩まされていた私にはまさに天の恵み。

4階建ての建物の中には男湯、女湯、ラウンジ、屋外プール、レストランとまさに健康ランドなみの充実ぶり。

早速家族を引き連れ、いってまいりましたが、セガレは屋外プールで大ハシャギ。私はサンスケ君に全身の垢を落としてもらいリラックス。妻も最上階の韓国料理レストランに太鼓判というわけで、家族一同大満足。

客層はコリアの皆さんが70%、日本人が20%、アジア人以外が10%といった感じでしょうか。週末は子供連れが多く(私たちもでしたが)、うるさいかもしれませんが、週日の日中は静かなのでねらい目です。

このInSPA Worldのオープンは当地日本人の間でもニュースだったようで、いろいろな方がブログで取り上げられています。ご参考までにリンクをこちらに  

Saturday, September 15, 2007

Yoga Debut


恥ずかしながら、ヨガ、初体験してしまいました。

数ヶ月前ほどから妻がハマリまくり、ほとんど毎日のように近所のヨガ・スタジオ通い。おかげで体の調子は絶好調なのだとか。

そんなわけで、レッスンのタダ券があるというので私も妻のヨガ・マットを小脇に抱え、いそいそとスタジオへ足を運んだのでした。

すっかりハードコアになってしまった妻は、暖房をきかせた中でやる「ホット・ヨガ」(気温が高いので筋肉がより伸びやすいらしい)をすすめていましたが、ただでさえ暑苦しい私が、そんな暑い中で屈伸運動したらそれこそ捩じれたサラミかハムみたいになっちまいますので、敬して遠ざけさせていただきました。

結論...けっこう気持ちいいです。

もともとレスリング・相撲などの格闘技系をやっていたので、体幹筋肉を鍛えること(四股ですね)や、ストレッチングになじみがありましたので、「息を吐くのと同時により筋肉を伸ばす」というヨガの基本もすんなりと入っていけました。

もっとも最近の運動不足で以前は太くてもけっこう柔らかかった体がコチコチになっていたのはちょっとショックでしたが...。鏡に映るオノレの姿はまるで二つ折りになったミシュラン・マン...。

続けてもいいかな。

Wednesday, September 12, 2007

Salad Bowl

My son started kindergarten at a local pubic school last week ("public" in American sense of the word, to be sure).

We knew it would only be for several weeks till my stint in New York ends. Nevertheless, we thought he would benefit from socializing with other kids and being in an educational set out, as opposed to just another play-group or day care centre.

Besides, my wife needs some time free from child duty during the day.

On his first day, I took a day off from work and three of us walked to the school together, which is only a couple of blocks away from our flat.  (How convenient!  My wife cannot believe her luck.)

It was very chaotic with hordes of children, some crying, and their anxious parents, of whom I was one.

Later, my wife pointed out,

"Have you realised? We didn't see any black children there."

At first I thought,

"That cannot be the case..."

Then I recalled the scene and... So true... and how come? It is a public school, after all.

It turns out that biggest minority group in that school is probably Japanese.

It must surely be a joke!

"There are no white America. No black America. But the United States of America."

Hmmm... I am not so sure, Mr. Obama.  An inspirational aspiration, to be sure, but...

Monday, September 10, 2007

Closed Langauage / Open Language


BBCのこんなサイトがあります。

英語の歴史。

なかなか面白いです。

ミュージカル・映画の「My Fair Lady」(といいますか、バーナード・ショーの戯曲「ピグマリオン」)でヒギンズ教授が言うように、英語と言う言葉は誰かがそれをしゃべれば、他の誰かがその人を憎むというように、あまりに多くの人たちによって、あまりにいろいろな話され方をしています。

こうした汎用性が現在の英語の世界言語としての地位を確固たるものにしている所以でしょう。いうなればOSソフトウェアのオープンソースみたいなもんですな。

かたや日本語は...難しいよね。

日本人じゃない人がいくら流暢に日本語しゃべっても、それは外国人の日本語に聞こえてしまう。

いわば英語が「開かれた言語」であるのに比べ、日本語は「閉じた言語」であるような気がします。

妻に言わせると広東語も「閉じた言語」なのだそうだ。

以前は世界中どこの中華街にいってもしゃべられている言葉は広東語だったが今ではそれが普通話に取って代わられている。

広東語がしゃべられていた理由は、世界に広がった華人ネットワークの主流が香港経由の広東人だったからでしょう。

また香港の経済力を背景にして、台湾人のテレサ・テンも北京出身のフェイ・ウォンも広東語の歌で香港デビューしていたわけだ。

しかし、妻によると広東語には独特の言い回しや、感嘆詞の使い方があり、そうした細部からネイティブ広東人なのか、ヨソモノなのかが簡単にわかってしまうらしい。

そうした意味では広東語も日本語同様、排他的な言語なのかもしれない。

もちろんいまでは広東語の本丸、香港でさえ普通話がはばを利かせています。

接客業はもちろんのこと、ヤムチャしに茶楼にいっても給仕のおばちゃんまで当たり前のように普通話を話しますし、仕事の採用で目を通す香港人の候補者(ホワイトカラー)の履歴書にも「普通話可」が当然です。

これにはもちろん中国の経済力の躍進が背景にあるのですが、それと同時に普通話が「開かれた言語」であることもその理由のようです。

中国各地に無数とある方言・中国語の亜種をしゃべる人たちにとって、普通話とはみんなが等しく「学んだ言葉」であり、そこには出身地による排他性などが比較的に介在しないらしいのです。(もちろん北京なまりの普通話だとか、上海なまりの普通話、四川なまりの普通話という違いはあるらしいですが。)

オレも早くしゃべれるようになりたい...。

Sunday, September 09, 2007

My Sporting Jinx


My son has become a Yankees fan. He does not understand anything about baseball but cheers "Hip, Hip... Jorge!" and "Let's Go Yankees!" every time he sees that "NY" sign.

Amazing...

Steinbrenner and Cashman can be proud of the work they have done in my household.

As for myself, about a month ago I realised that Seattle Mariners had climbed to the top of the AL Wild Card race and I decided to support that team. After all, I might as well support Ichiro's team.

Since then, the Mariners hit the brake pedal in a big way, losing most of their games, including a 9-game losing streak. To top it all, I had to witness their meltdown against the Yankees on TV whilst my son went about the flat cheering "Let's Go Yankees!"

Call me crazy, but I think I have a knack for jinxing whichever sports team that I support.

And now, the rugby world cup has started in France.

And I am supporting Japan.

It was with a heavy heart that I made my way to Baker Street Pub here in New York on Saturday morning to see Japan play Australia in their first pool game. I couldn't stay sober and downed 3 pints of Guinness in the morning as my fellow countrymen (and several naturalised Pacific Islanders) went down 91 to 3. The fourth pint was on the house, thanks to a lovely Irish girl behind the bar.

As I walked back from the pub, my Guinness soaked brain was slowly being cooked by the bright daylight of New York's late-summer sunshine and the poem I had learned whilst I was in England started to swirl around in my ears...

There's a breathless hush in the Close to-night --
Ten to make and the match to win --
A bumping pitch and a blinding light,
An hour to play and the last man in.
And it's not for the sake of a ribboned coat,
Or the selfish hope of a season's fame,
But his Captain's hand on his shoulder smote
"Play up! play up! and play the game!"

The sand of the desert is sodden red, --
Red with the wreck of a square that broke; --
The Gatling's jammed and the colonel dead,
And the regiment blind with dust and smoke.
The river of death has brimmed his banks,
And England's far, and Honour a name,
But the voice of schoolboy rallies the ranks,
"Play up! play up! and play the game!"

This is the word that year by year
While in her place the School is set
Every one of her sons must hear,
And none that hears it dare forget.
This they all with a joyful mind
Bear through life like a torch in flame,
And falling fling to the host behind --
"Play up! play up! and play the game!"

(Vitai Lampada by Sir Henry Newbolt, just in case you are interested...)

You can tell that Waterloo may have been won on the playing fields of Eton but the myth was buried in the trenches of France and the era of professional sports has finally put a stake through its heart.

Saturday, September 08, 2007

George MacDonald Fraser

うちのセガレはなぜかインディアン(ネイティブ・アメリカン)を「エンブレム」と呼びます。

なぜだ?

そしてなぜか、

「インディアンは悪者で、カウボーイは正義の味方だ。」

と、どこぞで覚えてきました。

恐るべし、アメリカのサマーキャンプ教育。

とはいえ、セガレの思い違いを更正しようにも、オレ様もあまりアメリカン・インディアンのこと知らんぞ...しかし分厚い人類学の学術書を読むのも面倒だし...。

というわけで、George MacDonald FraserFlashmanシリーズ中の「Flashman and the Redskins」を買ってきて読みました。

このFlashmanシリーズは著者のFraser氏が、偶然骨董屋で見つけた主人公、ハリー・フラッシュマンの回顧録を編集・出版しているというフィクションの下に構成されています。

「フラッシュマン」というのは実は「トム・ブラウンの学校生活」という19世紀イギリスのパブリック・スクール(ラグビー校)を舞台にした物語で、主人公のトムをいじめる不良上級生で、最後には飲酒を理由に放校されるという役柄で登場するのですが、著者のFraserさんはこれを本歌取りして、「その後のフラッシュマン」の活躍という形で作品を書いています。

いろいろその向き(イギリス文化、ヴィクトリア朝、などなど...)が好きな方には、ウンチクに富んだ背景があるのですが、ま、早い話、娯楽作品です。

フラッシュマンはいわゆるアンチ・ヒーローの典型で、ずるがしこく、臆病で、ずうずうしく、無類のオンナ好き。ラグビー校を退学になった後、騎兵連隊に入隊し、アフガニスタンクリミア戦争セポイの乱太平天国の乱、なんかに巻き込まれて大活躍をします。

ようするに大英帝国の揺籃期を背景にしつつ、Fraserさんのかなり細部にわたるリサーチを元にした大活劇といった趣きです。

今回読んだ「Flashman and the Redskins」は、カリフォルニアのゴールドラッシュの時代にニューオルリンズからサンフランシスコを目指す売春宿のご婦人方ご一行をエスコートする羽目になったフラッシュマンが米墨戦争直後のニューメキシコでアパッチ族に捕まり、命からがらに逃げ出す話と、その約25年後、リトルビッグホーンでのカスターの最後に立ち会う羽目になる話の二部構成になっています。

すらすらと一週間ほどで読んでしまいましたが、印象に残ったのは話の最後のほうのフラッシュマンのセリフ、

「お前が生まれた年、25年前、だからついこの間のことだ。オレはキット・カーソンと一緒にタオス(ニューメキシコ)からララミー(ワイオミング)まで旅したが、道一本なかったし、その間誰にも会わなかった。それが今じゃ毎日のように入植者がやってきて、どこもかしこも変わっちまった...お前が探しているような西部はもうすぐ無くなってしまう...。」

巻末のノートでFraserさんが書いていますが、長い人類の歴史の中において、アメリカの西部開拓というのは本当に「アッという間の出来事」だったのだそうだ。子供のころ幌馬車でやって来た入植者の子供が、晩年には西部劇映画を視ているような現象が起こったらしい。

こうした歴史のうねりの犠牲となったアメリカン・インディアン。

銃の乱射事件など、アメリカの暴力社会の悲劇を目にするたびに、その呪いを感じます。

とりあえずセガレには、

「いいインデイアンもわるいインディアンもいるし、いいカウボーイもわるいカウボーイもいるんだよ。本当にいけないのはみんなで一緒に仲良くできない人たちなんだよ。」

と言っていますが、理解できているんだろうか...?

Friday, September 07, 2007

Google Analytics

海音寺潮五郎さんつながりで、いつも拝見している、「塵壺」さんというブログがあるのですが、そこで取り上げられていたGoodle Analytics」を当ブログでも利用してみました。

いや、面白いです。

どこの誰がブログ見に来てくれているのかがわかります。

いちばんアクセスが多いのがニューヨークと東京から、そして香港、イギリスの順なのは当たり前なのですが、アメリカではオレゴン、ミネソタ、アイダホ、ルイジアナ、ユタなどなどの人がお出でになっています。多分、英語のタイトルが検索で引っかかって、いらっしゃったのでしょう。そういう方々のサイト滞在時間というのもわかるのですが、皆さん一分以内に「サヨナラ」されています。

そりゃそうだ。日本語読め無い人はトップの記事が日本語だったらすぐに、「ハイ、サイナラ」でしょうな。

そのほかにも、モロッコ、インド、クウェート、イスラエルなどの方々がダマサレテいるようです。

どうもすいません。

まぁ、しかし...恐るべし、Google

Tuesday, September 04, 2007

Books I Have Sold

私はこんな本を読んできた...ムハハハ」なんて言うインテリな方々がいらっしゃいますが、私はずばり

「私はこんな本を捨ててきた」

でいってみたいと思います。

高校生のころ、渡部昇一さんの「知的生活の方法」なんて読んだころは、

「将来は書斎いっぱいの本に囲まれて、パイプをくゆらしながら『知的生活』をおくるのだ...」

などと、今から思えばチョーこっぱずかしぃ~、赤面噴飯ものの考えがありましたが(まったく...「痴」的生活の間違いじゃねぇのか?)、東京からイギリスに引越し、イギリスから東京に戻り、東京から鎌倉へ移り、鎌倉から某カリブ海の島を経て香港へいたったころには、

「人生、身軽に限る」

とすっかり宗旨替え。

いったいぜんたい「書斎」だったはずの部屋が妻の趣味で「茶室」にかわり、家の中ではいたずらなセガレの手の届くところには何もおいておけない今の状態では「知的生活」など夢のまた夢。一読して自らの血肉にならない本、もしくは常に座右におきたいと思えるような本以外は、さっさと処分する方針に変えました。

もしまた読みたいと思えばまた買えばいいのだ。

そんなわけで、ニューヨークもあと2週間を切りましたので、アマゾン等で入手した本の整理・処分をするべく、ニューヨークにもあるBook Offまでいってきたわけです。

第一回の処分本は以下の通り。

三谷宏治

どっかで推薦されていたので買ってみましたが、いやぁ~つまらんかった。両方とも半分も読んでいません。私の頭脳が三谷さんを必要としていないのか、三谷さんの世界があまりに高尚で私がついていってないのか、どっちかわかりませんが、現在の時点の私にはまったくご縁のない本でした。

決断力
羽生善治

自分が伝えたい自分の考えをはっきりしたテーマとメッセージとして簡潔に書いている。物書きのプロでもないのに、ものすごく冴えた筆力だなと感心しました。やはり頭が良い人なのですね。


邱永漢さんのご推薦。とはいえ、邱さん自身は、この本の内容を推薦しているというよりは、「ものづくり」から「金で金をつくる」経済に変化していく日本、というご自身のものの見方の証左としてこの本を捉えているような気がしました。

岩崎さん、以前私が書いた

「無知蒙昧な愚民になり代わり...」

という典型的日本のエリートタイプであられるようです(元興銀マン...)。

個人的には岩崎さんが言っているような「大変化」がそうすぐに日本に訪れるとは思いません。

特に岩崎さんが力説する、KKRのような外国勢による「黒船」ショックは多分当分無いでしょう。

残念ながら。

ブルドッグソースごときで大騒ぎする日本のマーケットに国際資本は嫌気をさしているし、今の日本企業は世界的レベルでみてお買い得感ないもんね。

特に買収対象になりそうなダメな会社に限ってコストが高いし、買収した後のエグジット(出口)戦略の見通しが立たないケース多い。

買収後の経営ノウハウにしても、「経営のプロ」と呼ばれるような人材がマーケットに豊富にいないし(ユニクロの元社長がアイスクリーム屋やっている国ですからね...あぁもったいない...)。

世界中を浮遊する国際資本にしてみれば、面倒な日本でビジネスするよりは、もっと安く儲かりそうで戦略的に重要な中国や東南アジアにいった方がよっぽどお得。

(「国際資本」といってもその中には日本のお金がいったん国外にでたあとに戻ってきている場合も多いんだけど。)

日本のM&Aは日本の国内企業が、

「もうドラスティックにやらなきゃどうにもならん!」

てな具合になり、生き残りをかけて動き出すことにより始まると思う(というか現にそうなってきている)。

以前の「10・15年説」じゃないが、日本における本格的国際M&Aの大乱闘が始まるのは2014年前後じゃないかなと思っている。

単純にリップルウッドが新生銀行を再上場させたのが2004年だからなんだけど。

ま、そのころには団塊世代もリタイアしきって、自分たちの職(=既得権益)を守ることより、資産のより効率よい運用の方に興味を持ち始めるだろう。

それまでに極端な円安が進んで、国外からやってくる投資家には日本のものが何でも安くみえてしまう...というシナリオもありかな。

ついでに言えば、「死にそうな会社を買うより、死んだ会社を買ったほうが安い」ということもあります。

というわけで、いろいろ頭を刺激してくれる本でしたが、リピートには耐えないと思ったので、Book Offにひきとってもらいました。

キープしているのは陳舜臣さんの「中国の歴史 近・現代編」です。

Monday, September 03, 2007

Declining Empire Is The Best Place To Live

Just the other day, I was talking with a stranger in a bar about living in China and weighing the pros and cons about working and doing business there.

Needless to say, China is THE place now, arguably the most exciting country to do business in with a bucketful of opportunities (not to mention their corresponding risks).

It also goes without saying that living conditions there are atrocious, what is with air pollution, congestion, food safety and so on and so forth.

Let's just say that it ain't a place to raise your family, if you can avoid it.

Then it occurs to me...

A declining empire is the best place to live.

I mean who would want to live in Rome during its empire building era? You are subject to arduous military service as civic duty, dispatched off to some heathen land for more than a decade in the service of some megalomaniac aristocratic brats. I mean I am so glad that I can deal with the likes of Pompey or Caesar at the safe distance of 2000 odd years. At the end of it all, if you are lucky enough to survive the ordeal, you will be given a piece of land to labour on as a not-so-gentleman farmer. And all of this is the case provided you are fortunate enough to have been born as a Roman citizen. Heaven help you if you are a slave. "I am Spartacus!", indeed (my previous entry about the film here).

On the other hand, if you are living in Rome during its "decline" (as opposed to its "fall"), you have hit a jackpot. It's circus almost every other day at Colosseum and relaxing bath at the Caracalla's afterwards. Even if you are a bottom-feeding slave, the wealth and prosperity of the empire would trickle down to you in such a way that you may be able to hope for a funny thing happening on your way to the forum. In short, unless you are a fun-hating, life-denying Christian zealot about to be fed to a lion for entertainment at Colosseum, you can have a pretty good life.

On the same note, who would want to live in London in the 1850's. You would be having a cracking imperial adventure like Flashman, offering your precious life to vain imbeciles like Lord Cardigan or reckless empire builders like James Brooke. In London, you would be living through the Great Stink next to an open sewer called Thames River and in fear of cholera. You would be much better off in the early 20th century, living the life of Bertie Wooster (avoiding two world wars, of course).

Similarly, one should avoid living in America during such times as you need to circle your wagons to protect yourself from the native hostiles or die amongst thousands in order to settle some difference of opinion as to the federal government's constitutional powers to defend the union of states (not to mention an inconvenient issue regarding slavery).

The best time to live in America is, clearly and definitively, NOW.

Nowhere else on earth you would be provided day in day out with the top notch entertainment in the shapes of various professional sports, films and mindless TV shows and hordes of media channels to supply them through to you directly in your living room. Food is plenty (and also directly delivered to you at home) and your personal needs are attended to by every imaginable service provider (who would have thought that you need a personal shopping assistant). Fact, your material desire has been satisfied to saturation, you need a personal storage room on the edge of town to hold your possessions for you. Having more than you need is not luxury anymore. It is the norm.

A great thing about the empires is that they take time to be replaced by their successors. They do not die a sudden death, because by the time an empire becomes well established, the wealth of all the world around it is linked to the continuing prosperity of such empire.

Empires must decline first, and then fall.

I suppose the knack is in realising when the decline gets so steep that it becomes a fall.

I wonder if I live long enough to see the fall of America. As I do not want to be hit by such a fall in my old age, I must prepare myself well for it. And that probably means doing business with, but not in (if one can avoid it), China.

As for Japan, well, it has never been an empire but it sure has a long way to fall, if you ask me.
There was an error in this gadget