なぜだ?
そしてなぜか、
「インディアンは悪者で、カウボーイは正義の味方だ。」
と、どこぞで覚えてきました。
恐るべし、アメリカのサマーキャンプ教育。
とはいえ、セガレの思い違いを更正しようにも、オレ様もあまりアメリカン・インディアンのこと知らんぞ...しかし分厚い人類学の学術書を読むのも面倒だし...。
このFlashmanシリーズは著者のFraser氏が、偶然骨董屋で見つけた主人公、ハリー・フラッシュマンの回顧録を編集・出版しているというフィクションの下に構成されています。
「フラッシュマン」というのは実は「トム・ブラウンの学校生活」という19世紀イギリスのパブリック・スクール(ラグビー校)を舞台にした物語で、主人公のトムをいじめる不良上級生で、最後には飲酒を理由に放校されるという役柄で登場するのですが、著者のFraserさんはこれを本歌取りして、「その後のフラッシュマン」の活躍という形で作品を書いています。
いろいろその向き(イギリス文化、ヴィクトリア朝、などなど...)が好きな方には、ウンチクに富んだ背景があるのですが、ま、早い話、娯楽作品です。
フラッシュマンはいわゆるアンチ・ヒーローの典型で、ずるがしこく、臆病で、ずうずうしく、無類のオンナ好き。ラグビー校を退学になった後、騎兵連隊に入隊し、アフガニスタン、クリミア戦争、セポイの乱、太平天国の乱、なんかに巻き込まれて大活躍をします。
ようするに大英帝国の揺籃期を背景にしつつ、Fraserさんのかなり細部にわたるリサーチを元にした大活劇といった趣きです。
今回読んだ「Flashman and the Redskins」は、カリフォルニアのゴールドラッシュの時代にニューオルリンズからサンフランシスコを目指す売春宿のご婦人方ご一行をエスコートする羽目になったフラッシュマンが米墨戦争直後のニューメキシコでアパッチ族に捕まり、命からがらに逃げ出す話と、その約25年後、リトルビッグホーンでのカスターの最後に立ち会う羽目になる話の二部構成になっています。
すらすらと一週間ほどで読んでしまいましたが、印象に残ったのは話の最後のほうのフラッシュマンのセリフ、
「お前が生まれた年、25年前、だからついこの間のことだ。オレはキット・カーソンと一緒にタオス(ニューメキシコ)からララミー(ワイオミング)まで旅したが、道一本なかったし、その間誰にも会わなかった。それが今じゃ毎日のように入植者がやってきて、どこもかしこも変わっちまった...お前が探しているような西部はもうすぐ無くなってしまう...。」
巻末のノートでFraserさんが書いていますが、長い人類の歴史の中において、アメリカの西部開拓というのは本当に「アッという間の出来事」だったのだそうだ。子供のころ幌馬車でやって来た入植者の子供が、晩年には西部劇映画を視ているような現象が起こったらしい。
こうした歴史のうねりの犠牲となったアメリカン・インディアン。
銃の乱射事件など、アメリカの暴力社会の悲劇を目にするたびに、その呪いを感じます。
とりあえずセガレには、
「いいインデイアンもわるいインディアンもいるし、いいカウボーイもわるいカウボーイもいるんだよ。本当にいけないのはみんなで一緒に仲良くできない人たちなんだよ。」
と言っていますが、理解できているんだろうか...?
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