Friday, September 28, 2007

Kennst Du Das Land (君よ知るや南の国)

昔の日本人の名前に対する感覚というのはどうもつかみにくい。

「ナントカの守」とか「ナントカの介」なんてのはれっきとした官名だが、中央の朝廷・幕府権威が衰亡した室町中期・後期はみんな勝手にやりたい放題。どうもみんな好き勝手に語感がきにいったやつを自分で選んでいたみたいだ。いわゆる「受領名」というやつ。

織田信長は初期、有名な舅の美濃の斎藤道三との会見のとき、

「カズサノスケ(上総介)でござる」

と名乗ったらしいが、これは自称なんだろうか。初めて会う人に、

「千葉県知事です」

といってしまう感覚がすごい。まぁ当時の人にとっては「かざり」にすぎないのだから、別にどうともないのだろうが、明治のご一新このかたの中央集権国家に生まれた人間の感覚からはかなりずれている。

もっとも信長の場合はお父さんの信秀が当時としては奇特な勤王家で、朝廷に献金などしていたみたいだから、万年金欠状態にあった皇室から正式に(形だけだけど)任官していたのかもしれない。たしか上総の国は律令制度の下では「上国」で「守」は親王の専権職だから、信秀のオヤジが京のあばら屋住まいの食い詰め王子に、

「セガレの任官、これでひとつよしなに...」

なんて「水戸黄門」に出てくる悪徳商人みたいなことをいていたのかもしれない。

信長は後に天皇に上奏して部下の明智光秀や羽柴秀吉に日向守、筑前守を授かっているから、ここら辺の任官制度や朝廷交渉ということに関して早い時期から学習経験があったという推察もありだろう。

もっとも武家の棟梁が部下にかわって朝廷に任官を上奏し(そして個人の個別の申請を排除する)、ひいては任官業務(権威授与)を朝廷に代わり代行する、という手口は鎌倉殿こと源頼朝以来の武家政権やりかただけど。(はい、そこ、源九郎くん、ちゃんと聞いているのかね?!)

どの官名がいいのか...というか、どの官名にどんなイメージがあるのか(あったのか)というのもわからん。

ま、相模守なんていったら鎌倉北条家のイメージだろうし(北条時宗は相模太郎だもんね)、三河守は足利家のイメージ。秋田城の介なんていうと鎌倉時代の安達泰盛みたいな「幕府政権の懐刀」というイメ−ジなんじゃなかろうか。(信長の長子、信忠は城の介だった。)保元の乱の後、平清盛が讃岐守に任官したことを嫉妬した源義朝が、続く平治の乱の短命クーデター政権の下で讃岐守に任官しているところをみると、讃岐の国はよいところだったのだろう。うどんと金比羅様と溜め池by弘法大師...ですか...ま、京からも近いしね。

なんでこんなことを考え始めたのかというと、池波先生の「真田太平記」を読んでいて、

真田昌幸が安房守...セガレの真田源三郎信幸が伊豆守...昌幸の叔父、矢沢頼綱が薩摩守(頼綱の息子の三十郎頼康は但馬守)...なんかみんなトロピカルな国だな〜。

と気がついたから。

もしかしたら上州の山奥、雪に閉ざされた岩櫃城で家族一同、囲炉裏を囲みながら...

昌幸(丹波哲郎のイメージで):「ムフフ...、わしゃ『安房』じゃ。『安房』はいいぞぉ。房総半島の先っちょで、沖では黒潮がぶちあたるあたり、美味い海の幸が喰い放題らしい...。どうじゃ、源三郎...おぬしはどこがいい?」

信幸:「おそれながら、拙者は『伊豆」がよろしいかと...。お父上のおっしゃる海の幸はいわずもがな、別所の湯にも勝るとも劣らぬ、出で湯の地と聞き及んでおりますれば...。」

昌幸:「ムゥ...良いところに目をつけたの...。」

頼綱(加藤嘉のイメージで):「フォッ、フォッ、フォッ...おぬしらまだまだ甘いのぉ...どうせ南の国に参るのであれば、いっそこの日の本の国のいちばん南。『薩摩』じゃよ。芋焼酎にさつま揚げ。桜島の灰のおかげでおのれの白髪も目立たぬわい。」

昌幸:「さすがは叔父上...スケールが違いますの。して三十郎は。」

頼康:「...但馬...で...お願いします。」

昌幸:「それ、どこじゃ?」

信幸:「丹波のむこうですな。」

昌幸:「黒豆の先か...地味なヤツじゃ...。おい、源二郎(幸村)、おまえは?」

幸村:「...」

なんて「農協ツアー」のはしりみたいな会話をしていた...わけないか。

Thursday, September 27, 2007

Future of Civilization

ニューヨーク 滞在中にセガレが私のマシーン(Dell Inspiron 6000)をぶっ壊してしまい、おかげでポッドキャストの更新ができない状態だったのですが、帰港直前にアップルのMacBookProを購入。会社のコーポレート割引が利いたのでラッキー。

そこで久しぶりにポッドキャストを更新し、帰りの飛行機のなかでのんべんだらりと聞いてみたら、Discovery Channelのこのビデオ・ポッドキャストで目が覚めちゃいました。



加来道雄さん...すごい...

Wednesday, September 26, 2007

A Stranger's Homecoming

てなわけで、香港に帰ってまいりました。「帰港」です。

第一印象...

なんかすごく景気がいい。

周りの人たちの「鼻息」が荒い。

いけいけドンドン。

帰りの飛行機(NY-香港直行...17時間無制限勝負...ツラカッタ...)で通路を挟んだ隣の客が読んでいた香港の新聞に、

「大四喜」

という見出しがあったので、

(なんじゃらホイ...?「大三元」なら知っているけれど...?)

失礼を承知で漢字の羅列を眺めていたら、どうやら香港証券取引所で四つの新記録が出たらしい。つまり、

1.ハンセン(恒生)指数最高値記録

2.H株指数最高値記録

3.出来高最多記録

4.時価総額最高値記録

う~む...サブプライム問題でピリピリしてたニューヨークとはえらい違いじゃ。ニューヨークの金融マンたち...今年のボーナスは期待できそうも無いからね。

かたや中国もインフレ問題が顕在化してきている。

北京政府が打つ次の一手、次の次の一手、そのまた次の一手...で株価も乱高下しそうだ。

どうなるんだろう...。

...で、日本は...フ~ン...福田さんね...ま、どうでもいいや。

勝海舟じゃないが

「どうせなるようにしかならねぇよ。」

でしょう。

Monday, September 17, 2007

Celebrity Watching

ニューヨークで見かけた有名人...

真田広之

ある朝、通勤の途中、パーク・アヴェニューと56~58番街のどこかの角で、すれ違い。

「なんか、やたら色黒な東洋人がこんな暑い日にビシッとダーク・スーツでキメてるな...」

と、思いよく見たら、たそがれ清兵衛だった。

有名人オーラ度:60%


中村勘三郎、勘太郎、七之助

平成中村座の公演でニューヨーク入りしていた中村屋ご一行。

土曜日の休みに用事があってオフィスへ足を向けたら、オフィスが入っているビルの近くの日本料理屋の前ですれ違い。

遠くからでも、

「あ、背の低いオジサンが歩いてくる...。あ、勘三郎だ。」

と、わかりました。

「中村屋!」

とか

「平助!」(大河ドラマ「新選組!」で勘太郎が藤堂平助をやっていたので。)

なんて言ってみようと思いましたが、ご家族団欒のひと時だったようなので、遠慮しました。(その後、妻とリンカーンセンターへ観劇しにいきました。)

有名人オーラ度:80%


Christy Turlington

サイズが小さすぎたセガレの洋服を返品・交換しに妻がTribecaまで私を引っ張ってきたので、妻とセガレが洋服店に行っている間、自転車屋さんで時間をつぶしていたら、セガレぐらいの年の女の子とお手伝いさん風の黒人女性をつれた女性が子供の補助輪付チャリを引っぱりながらやってきた。

「お手伝いさんたぁ...金持ちなんだろうなぁ...」

と思って眺めていたら、サングラスをはずした顔のどこかに見覚えが...。

あとで妻に、

「ほら...あの...元スーパー・モデルで...ヨガやる...」

などと、もどかしさに5分ほど耐え抜いた後に、やっと名前が出てきた。

それにしても...まったく見事なまでにオーラなし。確かにスタイルが良くて、顔がメチャクチャ小っちゃい(オレの顔の二分の一?)けれど、あれだけのスタイルの人はそう珍しくはない。

やはりスーパー・モデルなんてぇのも、マーケットの需要という外因と、「自分ブランド」の確立と地道な仕事に対するビジネスの評価という個人の努力に尽きるんだろうな...と個人的に納得。

Sunday, September 16, 2007

InSPA World

日本人に欠かせないもの...それはお風呂でしょう。海外生活がそろそろ人生の50%を超えてきた私でも、お風呂が無い生活は...不可能ではありませんが、さみしいです。

シャワーだけでは「汚れ」は流せますが、「疲れ」がとれないのです。

そんなわけで、日本に帰国の際はほとんど必ず東京駅地下の東京温泉に行くのが私のお約束です。

長崎の隠れキリシタンたちが伝えてきた「和訳聖書」では、オリジナル通りマリアは馬小屋でイエスを産むのですが、その後すぐに宿屋のオヤジが出てきて聖家族のためにお風呂を焚く話になっているとか。

やはり日本人にとって風呂は欠かせないのでしょう。

香港では「まっとう」なサウナから、料金体系が表・裏ある「怪しい」風呂屋など、百花繚乱でしたが、ここニューヨークではどうもホテル付属のおしゃれな「SPA」しか見当たりませんでした。

しかし、ついに見つけました。

韓国系資本がオープンさせた、その名も「InSPA World」。

マンハッタン市内から地下鉄で30分ほどのFlushing。そこからまた送迎バスで約20分(しかも送迎バスの発着場所が不案内)という、距離的な不便さがイマイチですが、お風呂欠乏症に悩まされていた私にはまさに天の恵み。

4階建ての建物の中には男湯、女湯、ラウンジ、屋外プール、レストランとまさに健康ランドなみの充実ぶり。

早速家族を引き連れ、いってまいりましたが、セガレは屋外プールで大ハシャギ。私はサンスケ君に全身の垢を落としてもらいリラックス。妻も最上階の韓国料理レストランに太鼓判というわけで、家族一同大満足。

客層はコリアの皆さんが70%、日本人が20%、アジア人以外が10%といった感じでしょうか。週末は子供連れが多く(私たちもでしたが)、うるさいかもしれませんが、週日の日中は静かなのでねらい目です。

このInSPA Worldのオープンは当地日本人の間でもニュースだったようで、いろいろな方がブログで取り上げられています。ご参考までにリンクをこちらに  

Saturday, September 15, 2007

Yoga Debut


恥ずかしながら、ヨガ、初体験してしまいました。

数ヶ月前ほどから妻がハマリまくり、ほとんど毎日のように近所のヨガ・スタジオ通い。おかげで体の調子は絶好調なのだとか。

そんなわけで、レッスンのタダ券があるというので私も妻のヨガ・マットを小脇に抱え、いそいそとスタジオへ足を運んだのでした。

すっかりハードコアになってしまった妻は、暖房をきかせた中でやる「ホット・ヨガ」(気温が高いので筋肉がより伸びやすいらしい)をすすめていましたが、ただでさえ暑苦しい私が、そんな暑い中で屈伸運動したらそれこそ捩じれたサラミかハムみたいになっちまいますので、敬して遠ざけさせていただきました。

結論...けっこう気持ちいいです。

もともとレスリング・相撲などの格闘技系をやっていたので、体幹筋肉を鍛えること(四股ですね)や、ストレッチングになじみがありましたので、「息を吐くのと同時により筋肉を伸ばす」というヨガの基本もすんなりと入っていけました。

もっとも最近の運動不足で以前は太くてもけっこう柔らかかった体がコチコチになっていたのはちょっとショックでしたが...。鏡に映るオノレの姿はまるで二つ折りになったミシュラン・マン...。

続けてもいいかな。

Wednesday, September 12, 2007

Salad Bowl

My son started kindergarten at a local pubic school last week ("public" in American sense of the word, to be sure).

We knew it would only be for several weeks till my stint in New York ends. Nevertheless, we thought he would benefit from socializing with other kids and being in an educational set out, as opposed to just another play-group or day care centre.

Besides, my wife needs some time free from child duty during the day.

On his first day, I took a day off from work and three of us walked to the school together, which is only a couple of blocks away from our flat.  (How convenient!  My wife cannot believe her luck.)

It was very chaotic with hordes of children, some crying, and their anxious parents, of whom I was one.

Later, my wife pointed out,

"Have you realised? We didn't see any black children there."

At first I thought,

"That cannot be the case..."

Then I recalled the scene and... So true... and how come? It is a public school, after all.

It turns out that biggest minority group in that school is probably Japanese.

It must surely be a joke!

"There are no white America. No black America. But the United States of America."

Hmmm... I am not so sure, Mr. Obama.  An inspirational aspiration, to be sure, but...

Monday, September 10, 2007

Closed Langauage / Open Language


BBCのこんなサイトがあります。

英語の歴史。

なかなか面白いです。

ミュージカル・映画の「My Fair Lady」(といいますか、バーナード・ショーの戯曲「ピグマリオン」)でヒギンズ教授が言うように、英語と言う言葉は誰かがそれをしゃべれば、他の誰かがその人を憎むというように、あまりに多くの人たちによって、あまりにいろいろな話され方をしています。

こうした汎用性が現在の英語の世界言語としての地位を確固たるものにしている所以でしょう。いうなればOSソフトウェアのオープンソースみたいなもんですな。

かたや日本語は...難しいよね。

日本人じゃない人がいくら流暢に日本語しゃべっても、それは外国人の日本語に聞こえてしまう。

いわば英語が「開かれた言語」であるのに比べ、日本語は「閉じた言語」であるような気がします。

妻に言わせると広東語も「閉じた言語」なのだそうだ。

以前は世界中どこの中華街にいってもしゃべられている言葉は広東語だったが今ではそれが普通話に取って代わられている。

広東語がしゃべられていた理由は、世界に広がった華人ネットワークの主流が香港経由の広東人だったからでしょう。

また香港の経済力を背景にして、台湾人のテレサ・テンも北京出身のフェイ・ウォンも広東語の歌で香港デビューしていたわけだ。

しかし、妻によると広東語には独特の言い回しや、感嘆詞の使い方があり、そうした細部からネイティブ広東人なのか、ヨソモノなのかが簡単にわかってしまうらしい。

そうした意味では広東語も日本語同様、排他的な言語なのかもしれない。

もちろんいまでは広東語の本丸、香港でさえ普通話がはばを利かせています。

接客業はもちろんのこと、ヤムチャしに茶楼にいっても給仕のおばちゃんまで当たり前のように普通話を話しますし、仕事の採用で目を通す香港人の候補者(ホワイトカラー)の履歴書にも「普通話可」が当然です。

これにはもちろん中国の経済力の躍進が背景にあるのですが、それと同時に普通話が「開かれた言語」であることもその理由のようです。

中国各地に無数とある方言・中国語の亜種をしゃべる人たちにとって、普通話とはみんなが等しく「学んだ言葉」であり、そこには出身地による排他性などが比較的に介在しないらしいのです。(もちろん北京なまりの普通話だとか、上海なまりの普通話、四川なまりの普通話という違いはあるらしいですが。)

オレも早くしゃべれるようになりたい...。

Sunday, September 09, 2007

My Sporting Jinx


My son has become a Yankees fan. He does not understand anything about baseball but cheers "Hip, Hip... Jorge!" and "Let's Go Yankees!" every time he sees that "NY" sign.

Amazing...

Steinbrenner and Cashman can be proud of the work they have done in my household.

As for myself, about a month ago I realised that Seattle Mariners had climbed to the top of the AL Wild Card race and I decided to support that team. After all, I might as well support Ichiro's team.

Since then, the Mariners hit the brake pedal in a big way, losing most of their games, including a 9-game losing streak. To top it all, I had to witness their meltdown against the Yankees on TV whilst my son went about the flat cheering "Let's Go Yankees!"

Call me crazy, but I think I have a knack for jinxing whichever sports team that I support.

And now, the rugby world cup has started in France.

And I am supporting Japan.

It was with a heavy heart that I made my way to Baker Street Pub here in New York on Saturday morning to see Japan play Australia in their first pool game. I couldn't stay sober and downed 3 pints of Guinness in the morning as my fellow countrymen (and several naturalised Pacific Islanders) went down 91 to 3. The fourth pint was on the house, thanks to a lovely Irish girl behind the bar.

As I walked back from the pub, my Guinness soaked brain was slowly being cooked by the bright daylight of New York's late-summer sunshine and the poem I had learned whilst I was in England started to swirl around in my ears...

There's a breathless hush in the Close to-night --
Ten to make and the match to win --
A bumping pitch and a blinding light,
An hour to play and the last man in.
And it's not for the sake of a ribboned coat,
Or the selfish hope of a season's fame,
But his Captain's hand on his shoulder smote
"Play up! play up! and play the game!"

The sand of the desert is sodden red, --
Red with the wreck of a square that broke; --
The Gatling's jammed and the colonel dead,
And the regiment blind with dust and smoke.
The river of death has brimmed his banks,
And England's far, and Honour a name,
But the voice of schoolboy rallies the ranks,
"Play up! play up! and play the game!"

This is the word that year by year
While in her place the School is set
Every one of her sons must hear,
And none that hears it dare forget.
This they all with a joyful mind
Bear through life like a torch in flame,
And falling fling to the host behind --
"Play up! play up! and play the game!"

(Vitai Lampada by Sir Henry Newbolt, just in case you are interested...)

You can tell that Waterloo may have been won on the playing fields of Eton but the myth was buried in the trenches of France and the era of professional sports has finally put a stake through its heart.

Saturday, September 08, 2007

George MacDonald Fraser

うちのセガレはなぜかインディアン(ネイティブ・アメリカン)を「エンブレム」と呼びます。

なぜだ?

そしてなぜか、

「インディアンは悪者で、カウボーイは正義の味方だ。」

と、どこぞで覚えてきました。

恐るべし、アメリカのサマーキャンプ教育。

とはいえ、セガレの思い違いを更正しようにも、オレ様もあまりアメリカン・インディアンのこと知らんぞ...しかし分厚い人類学の学術書を読むのも面倒だし...。

というわけで、George MacDonald FraserFlashmanシリーズ中の「Flashman and the Redskins」を買ってきて読みました。

このFlashmanシリーズは著者のFraser氏が、偶然骨董屋で見つけた主人公、ハリー・フラッシュマンの回顧録を編集・出版しているというフィクションの下に構成されています。

「フラッシュマン」というのは実は「トム・ブラウンの学校生活」という19世紀イギリスのパブリック・スクール(ラグビー校)を舞台にした物語で、主人公のトムをいじめる不良上級生で、最後には飲酒を理由に放校されるという役柄で登場するのですが、著者のFraserさんはこれを本歌取りして、「その後のフラッシュマン」の活躍という形で作品を書いています。

いろいろその向き(イギリス文化、ヴィクトリア朝、などなど...)が好きな方には、ウンチクに富んだ背景があるのですが、ま、早い話、娯楽作品です。

フラッシュマンはいわゆるアンチ・ヒーローの典型で、ずるがしこく、臆病で、ずうずうしく、無類のオンナ好き。ラグビー校を退学になった後、騎兵連隊に入隊し、アフガニスタンクリミア戦争セポイの乱太平天国の乱、なんかに巻き込まれて大活躍をします。

ようするに大英帝国の揺籃期を背景にしつつ、Fraserさんのかなり細部にわたるリサーチを元にした大活劇といった趣きです。

今回読んだ「Flashman and the Redskins」は、カリフォルニアのゴールドラッシュの時代にニューオルリンズからサンフランシスコを目指す売春宿のご婦人方ご一行をエスコートする羽目になったフラッシュマンが米墨戦争直後のニューメキシコでアパッチ族に捕まり、命からがらに逃げ出す話と、その約25年後、リトルビッグホーンでのカスターの最後に立ち会う羽目になる話の二部構成になっています。

すらすらと一週間ほどで読んでしまいましたが、印象に残ったのは話の最後のほうのフラッシュマンのセリフ、

「お前が生まれた年、25年前、だからついこの間のことだ。オレはキット・カーソンと一緒にタオス(ニューメキシコ)からララミー(ワイオミング)まで旅したが、道一本なかったし、その間誰にも会わなかった。それが今じゃ毎日のように入植者がやってきて、どこもかしこも変わっちまった...お前が探しているような西部はもうすぐ無くなってしまう...。」

巻末のノートでFraserさんが書いていますが、長い人類の歴史の中において、アメリカの西部開拓というのは本当に「アッという間の出来事」だったのだそうだ。子供のころ幌馬車でやって来た入植者の子供が、晩年には西部劇映画を視ているような現象が起こったらしい。

こうした歴史のうねりの犠牲となったアメリカン・インディアン。

銃の乱射事件など、アメリカの暴力社会の悲劇を目にするたびに、その呪いを感じます。

とりあえずセガレには、

「いいインデイアンもわるいインディアンもいるし、いいカウボーイもわるいカウボーイもいるんだよ。本当にいけないのはみんなで一緒に仲良くできない人たちなんだよ。」

と言っていますが、理解できているんだろうか...?

Friday, September 07, 2007

Google Analytics

海音寺潮五郎さんつながりで、いつも拝見している、「塵壺」さんというブログがあるのですが、そこで取り上げられていたGoodle Analytics」を当ブログでも利用してみました。

いや、面白いです。

どこの誰がブログ見に来てくれているのかがわかります。

いちばんアクセスが多いのがニューヨークと東京から、そして香港、イギリスの順なのは当たり前なのですが、アメリカではオレゴン、ミネソタ、アイダホ、ルイジアナ、ユタなどなどの人がお出でになっています。多分、英語のタイトルが検索で引っかかって、いらっしゃったのでしょう。そういう方々のサイト滞在時間というのもわかるのですが、皆さん一分以内に「サヨナラ」されています。

そりゃそうだ。日本語読め無い人はトップの記事が日本語だったらすぐに、「ハイ、サイナラ」でしょうな。

そのほかにも、モロッコ、インド、クウェート、イスラエルなどの方々がダマサレテいるようです。

どうもすいません。

まぁ、しかし...恐るべし、Google

Tuesday, September 04, 2007

Books I Have Sold

私はこんな本を読んできた...ムハハハ」なんて言うインテリな方々がいらっしゃいますが、私はずばり

「私はこんな本を捨ててきた」

でいってみたいと思います。

高校生のころ、渡部昇一さんの「知的生活の方法」なんて読んだころは、

「将来は書斎いっぱいの本に囲まれて、パイプをくゆらしながら『知的生活』をおくるのだ...」

などと、今から思えばチョーこっぱずかしぃ~、赤面噴飯ものの考えがありましたが(まったく...「痴」的生活の間違いじゃねぇのか?)、東京からイギリスに引越し、イギリスから東京に戻り、東京から鎌倉へ移り、鎌倉から某カリブ海の島を経て香港へいたったころには、

「人生、身軽に限る」

とすっかり宗旨替え。

いったいぜんたい「書斎」だったはずの部屋が妻の趣味で「茶室」にかわり、家の中ではいたずらなセガレの手の届くところには何もおいておけない今の状態では「知的生活」など夢のまた夢。一読して自らの血肉にならない本、もしくは常に座右におきたいと思えるような本以外は、さっさと処分する方針に変えました。

もしまた読みたいと思えばまた買えばいいのだ。

そんなわけで、ニューヨークもあと2週間を切りましたので、アマゾン等で入手した本の整理・処分をするべく、ニューヨークにもあるBook Offまでいってきたわけです。

第一回の処分本は以下の通り。

三谷宏治

どっかで推薦されていたので買ってみましたが、いやぁ~つまらんかった。両方とも半分も読んでいません。私の頭脳が三谷さんを必要としていないのか、三谷さんの世界があまりに高尚で私がついていってないのか、どっちかわかりませんが、現在の時点の私にはまったくご縁のない本でした。

決断力
羽生善治

自分が伝えたい自分の考えをはっきりしたテーマとメッセージとして簡潔に書いている。物書きのプロでもないのに、ものすごく冴えた筆力だなと感心しました。やはり頭が良い人なのですね。


邱永漢さんのご推薦。とはいえ、邱さん自身は、この本の内容を推薦しているというよりは、「ものづくり」から「金で金をつくる」経済に変化していく日本、というご自身のものの見方の証左としてこの本を捉えているような気がしました。

岩崎さん、以前私が書いた

「無知蒙昧な愚民になり代わり...」

という典型的日本のエリートタイプであられるようです(元興銀マン...)。

個人的には岩崎さんが言っているような「大変化」がそうすぐに日本に訪れるとは思いません。

特に岩崎さんが力説する、KKRのような外国勢による「黒船」ショックは多分当分無いでしょう。

残念ながら。

ブルドッグソースごときで大騒ぎする日本のマーケットに国際資本は嫌気をさしているし、今の日本企業は世界的レベルでみてお買い得感ないもんね。

特に買収対象になりそうなダメな会社に限ってコストが高いし、買収した後のエグジット(出口)戦略の見通しが立たないケース多い。

買収後の経営ノウハウにしても、「経営のプロ」と呼ばれるような人材がマーケットに豊富にいないし(ユニクロの元社長がアイスクリーム屋やっている国ですからね...あぁもったいない...)。

世界中を浮遊する国際資本にしてみれば、面倒な日本でビジネスするよりは、もっと安く儲かりそうで戦略的に重要な中国や東南アジアにいった方がよっぽどお得。

(「国際資本」といってもその中には日本のお金がいったん国外にでたあとに戻ってきている場合も多いんだけど。)

日本のM&Aは日本の国内企業が、

「もうドラスティックにやらなきゃどうにもならん!」

てな具合になり、生き残りをかけて動き出すことにより始まると思う(というか現にそうなってきている)。

以前の「10・15年説」じゃないが、日本における本格的国際M&Aの大乱闘が始まるのは2014年前後じゃないかなと思っている。

単純にリップルウッドが新生銀行を再上場させたのが2004年だからなんだけど。

ま、そのころには団塊世代もリタイアしきって、自分たちの職(=既得権益)を守ることより、資産のより効率よい運用の方に興味を持ち始めるだろう。

それまでに極端な円安が進んで、国外からやってくる投資家には日本のものが何でも安くみえてしまう...というシナリオもありかな。

ついでに言えば、「死にそうな会社を買うより、死んだ会社を買ったほうが安い」ということもあります。

というわけで、いろいろ頭を刺激してくれる本でしたが、リピートには耐えないと思ったので、Book Offにひきとってもらいました。

キープしているのは陳舜臣さんの「中国の歴史 近・現代編」です。

Monday, September 03, 2007

Declining Empire Is The Best Place To Live

Just the other day, I was talking with a stranger in a bar about living in China and weighing the pros and cons about working and doing business there.

Needless to say, China is THE place now, arguably the most exciting country to do business in with a bucketful of opportunities (not to mention their corresponding risks).

It also goes without saying that living conditions there are atrocious, what is with air pollution, congestion, food safety and so on and so forth.

Let's just say that it ain't a place to raise your family, if you can avoid it.

Then it occurs to me...

A declining empire is the best place to live.

I mean who would want to live in Rome during its empire building era? You are subject to arduous military service as civic duty, dispatched off to some heathen land for more than a decade in the service of some megalomaniac aristocratic brats. I mean I am so glad that I can deal with the likes of Pompey or Caesar at the safe distance of 2000 odd years. At the end of it all, if you are lucky enough to survive the ordeal, you will be given a piece of land to labour on as a not-so-gentleman farmer. And all of this is the case provided you are fortunate enough to have been born as a Roman citizen. Heaven help you if you are a slave. "I am Spartacus!", indeed (my previous entry about the film here).

On the other hand, if you are living in Rome during its "decline" (as opposed to its "fall"), you have hit a jackpot. It's circus almost every other day at Colosseum and relaxing bath at the Caracalla's afterwards. Even if you are a bottom-feeding slave, the wealth and prosperity of the empire would trickle down to you in such a way that you may be able to hope for a funny thing happening on your way to the forum. In short, unless you are a fun-hating, life-denying Christian zealot about to be fed to a lion for entertainment at Colosseum, you can have a pretty good life.

On the same note, who would want to live in London in the 1850's. You would be having a cracking imperial adventure like Flashman, offering your precious life to vain imbeciles like Lord Cardigan or reckless empire builders like James Brooke. In London, you would be living through the Great Stink next to an open sewer called Thames River and in fear of cholera. You would be much better off in the early 20th century, living the life of Bertie Wooster (avoiding two world wars, of course).

Similarly, one should avoid living in America during such times as you need to circle your wagons to protect yourself from the native hostiles or die amongst thousands in order to settle some difference of opinion as to the federal government's constitutional powers to defend the union of states (not to mention an inconvenient issue regarding slavery).

The best time to live in America is, clearly and definitively, NOW.

Nowhere else on earth you would be provided day in day out with the top notch entertainment in the shapes of various professional sports, films and mindless TV shows and hordes of media channels to supply them through to you directly in your living room. Food is plenty (and also directly delivered to you at home) and your personal needs are attended to by every imaginable service provider (who would have thought that you need a personal shopping assistant). Fact, your material desire has been satisfied to saturation, you need a personal storage room on the edge of town to hold your possessions for you. Having more than you need is not luxury anymore. It is the norm.

A great thing about the empires is that they take time to be replaced by their successors. They do not die a sudden death, because by the time an empire becomes well established, the wealth of all the world around it is linked to the continuing prosperity of such empire.

Empires must decline first, and then fall.

I suppose the knack is in realising when the decline gets so steep that it becomes a fall.

I wonder if I live long enough to see the fall of America. As I do not want to be hit by such a fall in my old age, I must prepare myself well for it. And that probably means doing business with, but not in (if one can avoid it), China.

As for Japan, well, it has never been an empire but it sure has a long way to fall, if you ask me.

Sunday, September 02, 2007

Alt Heidelberg

(このエントリーは私の高校時代のドイツ語の先生、桝谷氏に捧げます。)

近所に「Heidelberg」というおいしそうなドイツ料理屋さんがあると教えてくれたのは、うまいものに目がないわりには鼻が利くわが家の山の神

すでにここ数ヶ月ほど、Second Avenueならびにある無愛想ながらもおいしいドイツ・デリ、Schaller & Weberにお世話になっており、かねてよりそのおとなりさんにあたるこのレストランが気になっていたそうだ。

そこで先日、家族で行ってきました。

潜入、Heidelberg...

なんか冷戦時代のスパイ物みたいだな...。

バー・エリアとレストラン・エリアに分かれた店内に入ったとたんに耳に流れ込んできたのはポルカの音色。

...ドイツだ...。

「何人ですか?」

と聞くウェイトレスのお嬢さんは、なんか恰幅のいい(ちょっと赤ら顔の)ブロンド娘。

...ドイツだ...。

しかもドイツ民族衣装風の白いブラウスとジャンパースカートのコンビネーション。

(しかもジャンパースカートの上半身部分がピッチピチ...)

...ドイツだ...。

(東洋人女性は自分をセクシーに見せようとしてジャンパースカートを着ないもんなぁ~...。)

他のウェイターも、その顔どうみてもメキシコ・プエルトリコ系だろ?というお兄ちゃんたちがレーダーホーゼン着てはりきっている。

う~ん...すごい。

やられた...。

こりゃドイツだ...。

それにしても本当のドイツ人はこういう「これでもか、これでもか」といった感じのコッテリまるごとドイツでっせ!という店作りに引かないのだろうか。

もし私が異国で日本料理屋に行ってBGMに琴の音色で「さくら、さくら」なんて流れてきたら、ちょっと食傷するが...どうなんだらう。

肝心の食べ物は、ドイツ料理屋に行くと決めたときから食べることにしていたアイスバイン。そして飲み物はピルスナーのビール。Warsteinerでいってみよう!

まずはビールでやられました。美味い!久しぶりにキレのあるビールを飲んだ。自分がアメリカに来てから、いかに不味いビールを飲んでいたのか思い知らされました。

次にアイスバイン。

...で、でかい!ゲンコツ四つほどの大きさの豚の脚関節が大きなお皿にドン。トロトロのコラーゲンがたっぷり。

付け合せはザウアークラウトとジャガイモのパンケーキにアップルソース。これがまた美味。ザウアークラウトが嫌いという妻も、

「これはオイシイ...」

セガレも黙ってパンケーキに喰らいつく。

...おいしい店に行くとなぜか無言になるわがファミリー。

しかもお値段おてごろ。

気取りもヒネリも無い。無骨ながら正直な「美味いもん」を食べさせるお店。

こりゃ掘り出しモンだねぇ~...と家族みんな大満足で家に帰ったのでした。

その後数日してからこんどは一人でバーに行ってきました。

ビールの味が忘れられず...。アハハ...。

バーのストゥールに腰掛け、一リットルの大ジョッキを頼んでグビグビやり始めたら、となりのオジイサンが、

「お若いの...よく飲むね...」

いやぁ~、好きなもんで...アハハ...といった具合に会話が始まった。

話を聞くと、オジイサンはピアノの修理工・調律師でジュリアード音楽院に出入りしているとか。

「オジイサン、もしかしてドイツ人?」

「ヤー、ヤー...」

しからば...と、ビールの助けを借り、高校以来、錆び付いたというもおろかなドイツ語を脳みその片隅から取りだして...

「汝ハ、ドイツノイズレヨリ来タルカ?」

「共産圏ナリ。ポーランド国境チカクノ町ナリ。」

「オー、ドレスデンノ近クナリヤ?」

「ヤー、ヤー...」

と、まぁドイツ語はここら辺までが限界...桝谷さん...面目次第もない。

とにかく片言が出てきたので、かなり打解けてくれたご老人。1956年に兵役を逃れるために西ベルリンに逃亡。ユダヤ系ルーマニア人の奥さんと結婚し、アメリカにやってきたとか。奥さんは10年前に亡くなっちゃったんだけど、美人だったんだ...などと思い出話が止めどもなく出てくる。

「誰か有名なミュージシャンと仕事しましたか?」

と聞いたら、

「この前、アイザック・スターンの家のピアノを直しに行ってきた...」

...ウォオーッ!スッゲー...というミーハーな自分をひたすら隠し、

「好きなピアニストっておられますか?」

「やっぱりホロヴィッツだね...サイン入りのレコードもってるのさ...」

...ホロヴィッツとは...古風ですな...。

レストランの由来の話を振り向けたら。

「いやね、ニューヨークのここら辺一帯は昔はジャーマンタウンだったのさ。ドイツ語オンリーの映画館が三つもあったんだ。」

「あぁ...キーノ...でしたっけ」

「そうそう。で、この店は1960年ごろアルゼンチンからやってきたドイツ人夫妻がはじめたのさ。だからもうすごい老舗なんだよ。」

「へっ?またなぜアルゼンチン?」

「ハハハ...ご主人が元ナチス親衛隊だったのさ...。だから戦後亡命していたんだ...。」

「(...マジかよ...。)」

「個人的に親しくしていたから、彼らのニュージャージーの自宅に行ったこともあったけど、昔のSSの制服を着たご主人の若いころの写真があったりして、ありゃおったまげたね。ほら、さっき言ったけど、うちの妻はユダヤ人だったからねぇ...。

「そりゃ...ちょっと...驚きだったでしょうね...。」

「いや、みんなもう過去の話さ。アメリカまでやってきて過去を引きずっているのもバカバカしいはなしだろ。」

「はぁ、なるほど...。」

「まぁそんなわけで、今ではあの夫妻の娘さんがこの店を仕切っているのさ。」

なるほどね~...と話を聞きながら、話題はご老体のご趣味のスキーにうつり、つぎにフスバル(サッカー)なぞお好きですか?と聞いてみたら、

「いや、もうサッカーは見ないね。バイエルン・ミュンヘンだろうが、どこのチームだろうが、最近はプレーヤーが外国人ばかりで...あれはドイツのチームではない!」

「...」

「大体ケルンにモスクを建てるなんて話、どうなっとるんだ!」

「...(話題を変えよう...)そういえば最近1954年ワールド・カップの話の映画がありましたね...『ベルンの奇跡』でしたっけ?」

「そう!あれは忘れられない試合だった...決勝でハンガリーに2点先行されたあとに逆転...3-2...ドイツ初優勝...

...とご老体の目が遠くを見つめて潤んできたところで、

「...おぉ、もうこんな時間か...それでは...」

と失礼しようとしたところ、

「もしよかったら15日のパレードにおいで。」

との一言。

915日にドイツ系アメリカ人のパレードがあるのだとか。来賓はドイツ系アメリカ人で国務長官まで上り詰めたキッシンジャーさんと、東西ドイツ統一の功労者、ヘルムート・コール元首相なんだと。

アメリカではユダヤ系アメリカ人の代表のようなキッシンジャーとコールが揃い踏みとは...ナチスの悪夢も遠くなりにけり...なんだろうか。

しかしこの店に通いつめたらビールとトン足であっという間に通風だな...。