Friday, September 28, 2007

Kennst Du Das Land (君よ知るや南の国)

昔の日本人の名前に対する感覚というのはどうもつかみにくい。

「ナントカの守」とか「ナントカの介」なんてのはれっきとした官名だが、中央の朝廷・幕府権威が衰亡した室町中期・後期はみんな勝手にやりたい放題。どうもみんな好き勝手に語感がきにいったやつを自分で選んでいたみたいだ。いわゆる「受領名」というやつ。

織田信長は初期、有名な舅の美濃の斎藤道三との会見のとき、

「カズサノスケ(上総介)でござる」

と名乗ったらしいが、これは自称なんだろうか。初めて会う人に、

「千葉県知事です」

といってしまう感覚がすごい。まぁ当時の人にとっては「かざり」にすぎないのだから、別にどうともないのだろうが、明治のご一新このかたの中央集権国家に生まれた人間の感覚からはかなりずれている。

もっとも信長の場合はお父さんの信秀が当時としては奇特な勤王家で、朝廷に献金などしていたみたいだから、万年金欠状態にあった皇室から正式に(形だけだけど)任官していたのかもしれない。たしか上総の国は律令制度の下では「上国」で「守」は親王の専権職だから、信秀のオヤジが京のあばら屋住まいの食い詰め王子に、

「セガレの任官、これでひとつよしなに...」

なんて「水戸黄門」に出てくる悪徳商人みたいなことをいていたのかもしれない。

信長は後に天皇に上奏して部下の明智光秀や羽柴秀吉に日向守、筑前守を授かっているから、ここら辺の任官制度や朝廷交渉ということに関して早い時期から学習経験があったという推察もありだろう。

もっとも武家の棟梁が部下にかわって朝廷に任官を上奏し(そして個人の個別の申請を排除する)、ひいては任官業務(権威授与)を朝廷に代わり代行する、という手口は鎌倉殿こと源頼朝以来の武家政権やりかただけど。(はい、そこ、源九郎くん、ちゃんと聞いているのかね?!)

どの官名がいいのか...というか、どの官名にどんなイメージがあるのか(あったのか)というのもわからん。

ま、相模守なんていったら鎌倉北条家のイメージだろうし(北条時宗は相模太郎だもんね)、三河守は足利家のイメージ。秋田城の介なんていうと鎌倉時代の安達泰盛みたいな「幕府政権の懐刀」というイメ−ジなんじゃなかろうか。(信長の長子、信忠は城の介だった。)保元の乱の後、平清盛が讃岐守に任官したことを嫉妬した源義朝が、続く平治の乱の短命クーデター政権の下で讃岐守に任官しているところをみると、讃岐の国はよいところだったのだろう。うどんと金比羅様と溜め池by弘法大師...ですか...ま、京からも近いしね。

なんでこんなことを考え始めたのかというと、池波先生の「真田太平記」を読んでいて、

真田昌幸が安房守...セガレの真田源三郎信幸が伊豆守...昌幸の叔父、矢沢頼綱が薩摩守(頼綱の息子の三十郎頼康は但馬守)...なんかみんなトロピカルな国だな〜。

と気がついたから。

もしかしたら上州の山奥、雪に閉ざされた岩櫃城で家族一同、囲炉裏を囲みながら...

昌幸(丹波哲郎のイメージで):「ムフフ...、わしゃ『安房』じゃ。『安房』はいいぞぉ。房総半島の先っちょで、沖では黒潮がぶちあたるあたり、美味い海の幸が喰い放題らしい...。どうじゃ、源三郎...おぬしはどこがいい?」

信幸:「おそれながら、拙者は『伊豆」がよろしいかと...。お父上のおっしゃる海の幸はいわずもがな、別所の湯にも勝るとも劣らぬ、出で湯の地と聞き及んでおりますれば...。」

昌幸:「ムゥ...良いところに目をつけたの...。」

頼綱(加藤嘉のイメージで):「フォッ、フォッ、フォッ...おぬしらまだまだ甘いのぉ...どうせ南の国に参るのであれば、いっそこの日の本の国のいちばん南。『薩摩』じゃよ。芋焼酎にさつま揚げ。桜島の灰のおかげでおのれの白髪も目立たぬわい。」

昌幸:「さすがは叔父上...スケールが違いますの。して三十郎は。」

頼康:「...但馬...で...お願いします。」

昌幸:「それ、どこじゃ?」

信幸:「丹波のむこうですな。」

昌幸:「黒豆の先か...地味なヤツじゃ...。おい、源二郎(幸村)、おまえは?」

幸村:「...」

なんて「農協ツアー」のはしりみたいな会話をしていた...わけないか。

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