Friday, November 09, 2007

Yoritomo

独りモンの読書遍歴。

永井路子著「つわものの賦」初版発行1978年 文藝春秋

ニューヨークから帰ってきて以来、どうも「身辺整理」が趣味になてしまった。どうも今現在の私の人生のテーマは「身軽」らしい。

そんなわけで、訪米中お蔵漬けになっていた本を一冊づつ持ち出してきては、手放すべきか座右におくべきかを思案しているのだが、さすがにここ五・六年の度重なる引っ越しのお供をしてきた蔵書には捨てがたいものが多い。

この本もそんな本の一つ。

永井さん、大好きです。

歴史文学における女性の視点というのは、もっと注目されていいと思う。あまりに大雑把な言い方は避けるべきだろうが、どうも男の視点から論じる歴史は戦争と権力あらそいの描写に終始してしまい、結局は登場人物の心象風景がおざなりになり、結果それらの人々の行動の動機付けが曖昧になり、歴史そのものが生きてこない。マンガ道でいうところの「キャラが立たない」わけですね。

結局、歴史文学はいうに及ばず、歴史の研究にも「人間性透察」の能力は欠かせないと思うわけです。

尊敬する海音寺先生は、もちろんこの偉大なる例外になるわけだけど、その海音寺先生も薩摩隼人の男気が先にいきすぎてしまっているような印象を受けるときがままある。これはもう個人のすき好みの領域かもしれないが、海音寺先生の「謙信びいき」はこのひとつで、たしかに「義」の為に「後に続け〜」と単騎で越後から関東に馳せかけてくる戦国武将の姿には感銘するが、私はこの手の戦争屋は好かんのだ。

そんなわけで、永井さんや、杉本さん、そして最近では塩野さんなんかの著作は貴重だなと思うわけです。

のっけから話がずれましたが、この本は永井さんが「炎環」「北条政子」で文壇デビューして以来、自家薬籠中のものとしていた「源平/鎌倉時代」に関する彼女の結論的「史伝」です。

以前は「頼朝の旗挙げ」、「源平戦争」、「鎌倉幕府の創設」という年表的かつ表層的扱いをされていたこの時代を「東国武士の勃興」、「東国、西国、奥州の多層的権力構造」というテーマで捉え、頼朝、後白河、北条義時、三浦義村らの主要登場人物の人間性に深く切り込んでいます。

誰だったか忘れましたが、「鎌倉時代以前の歴史は日本の歴史ではない」といった人がいたとか。たしかに平安王朝貴族の文化・文明はその後の日本の歴史からみれば異質なものかもしれませんが、この論調で「日本の古代」を完全に否定してしまうのもちょっと乱暴がすぎるとも思えます。

それよりも注目すべきは「鎌倉幕府」に象徴される武家政治の登場により、日本において初めて「生産者階級」による政権が登場したことでしょう。「鎌倉武士」はその後の戦争屋的性格を深めていった戦国武将や、官吏的な江戸時代の武士とも違い、その基本は「開拓者」であり「一所懸命」の地主階級。戦乱となれば「いざ鎌倉」で駆けつけますが、普段はみずから汗を流し家ノ子、郎党を指揮して農事に励む親分さんなわけです。

こうした「武士」社会の掟が、外来の建前の概念に基づいて成立され、歴史の流れの中で形骸化した律令制度にとってかわり、のちに北条泰時の手により「御成敗式目」となった次第はみなさんご存知の通り。

泰時は後に、「朝廷の方々のいわれるような難しいことは知らないが、この式目の内容は我々にとっては『道理』となっているものだ。だから自らの無知に臆することなくこれを示せ。」と言ったという。(下に参考までにこの「泰時消息文」の読みくだし文と現代語訳を載せときます。)

そしてこの「道理」を法源とする式目の効力は、明治維新により近代法治国家が生まれるまで存続したのである。

(赤穂浪士の「喧嘩両成敗は御成敗式目以来の云々」という台詞はここからきているわけですね。なお、徳川家康は「吾妻鏡」を座右の書としていたらしい。)

今の時代にも「道理」の政治を行ってくれる人が欲しいところ。

個人的に吾妻鏡の中で一番好きなシーンは、頼朝の征夷大将軍任命の勅使応対役を承った三浦義澄が勅使に名を尋ねられ、

「三浦ノ次郎」

と名乗ったという一段。本来であれば義澄には「三浦介」という官名があったのだが、あえて勅使に対し律令制度の下の官名を名乗らず、坂東風に名乗ったわけだ。これに対し、吾妻鏡は「面目絶妙」と評している。

なんかヤクザが仁義を切っているみたいなところもありますが。

思えば私の永井さんとのおつきあいは高校生の時が最初だったのかもしれない。日本史の授業で担当の柴田先生が鎌倉の八幡宮での実朝暗殺の段になって突然熱の入った謎解き(暗殺の黒幕は誰だ!)を披露してくれたのを今でも鮮明に覚えている。あれは永井さんが提唱した説だったのだなとわかったのは後のこと。

暗殺の黒幕をお知りになりたい方は、この本を手にとって読んでみてください。

この時代、個性的に過ぎてアクの強そうなキャラがたくさんいるが、やはり一番尊敬できるのは武家政治の根本を築いた北条義時と泰時の親子、そして義時の弟、時房でしょう。北条家は1333年(イチミサンザンなどと覚えたっけ)に新田義貞に率いられた軍勢に滅ぼされますが、その想像を絶する謀略と腹黒さ(?)の歴史とは裏腹に、この一族は代々清貧で過ごしたらしい。(末期の奢侈に関しては後醍醐側のプロパギャンダとの説が有力。)彼らの政権が滅んだ理由は、時代ととも発達した経済環境についていけなかったということが大きいのでしょう。最後は高時はじめ一族郎党ともども七百人余が鎌倉の谷(ヤツ)で見事自害に及んだとのこと。北条家というものが、それだけ最後まで支持されていた政権の担い手だったという証左ではないでしょうか。(鎌倉の腹切りやぐら(東勝寺の址)は必見スポット。霊感の鋭い人には怖いかもしれませんが、ちょっとゾッとします。)

私個人的には、清貧でありながら政敵にはとことんアクドイ、さりながらゴリッパな北条さんちも面白そうですが、この時代で興味のつきない人物はやはり頼朝でしょう。12・3の歳に平治の乱の敗戦により、恐怖の逃避行、親兄弟の横死、死刑を一等減じられ流刑...などなどのトラウマを経験しながら、正妻のヒステリーにもめげない立派なスケベ親父に成長し、ガラの悪いやくざの親分衆みたいな東国武士に担がれながら、煮ても焼いても食えない政治家に大成したこのおじさん。会ってみたら面白そうです。私のイメージでは大河ドラマ「草燃ゆる」で石坂浩二さんが演じていた頼朝が印象に残っているのですが、最近の「義経」では中井貴一クンが頼朝をやっていたみたいでしたね。

「みずしま...もとい、よりとも〜。一緒に日本...京に帰ろう!」

...ネタが古いか。

しかし奥さんの妊娠中の浮気はよくないね。

ちなみに上の絵は前田青邨画伯の「洞窟の頼朝」。旗挙げの後、石橋山での戦いに破れ伊豆山中を逃げ回り洞窟に隠れた頼朝主従の群像です。負け戦にグッタリという風情の中で独り眼光鋭く、うっすらと不敵な笑みさえ浮かべているような頼朝の表情。好きな絵です。

この後、主従は二手に分かれて伊豆を脱出し、海路房総半島に向かうのですが、その途上相模湾か東京湾海上で主従再会します。その様子を同じ青邨画伯が絵にしたのがこれ。


ちょっとまとまりがなくなってきたので、ここら辺でおわり。









貞永式目 唯浄裏書本{ゆいじょううらがきぼん} 

さてこの式目をつくられ候事は、なにを本説{ほんせつ}として被注載之由{ちゅうしのせらるるのよし}、人さだめて謗難{ぼうなん}を加ふる事候歟{ことにそうろうか}、ま事にさせる本文にすがりたる事候はねども、たゞどうりのおすところを被記{しるされ}候者也。かやうに兼日{けんじつ}に定め候はずして、或はことの理非をつぎにして、其人のつよきよはぎにより、或{あるいは}御裁許ふりたる事をわすらかしておこしたて候。かくのごとく候ゆへに、かねて御成敗の躰{てい}を定めて、人の高下{こうげ}を論ぜず、偏頗{へんぱ}なく裁定せられ候はんために、子細{しさい}記録しをかれ候者也。この状は法令{ほうりょう(律令)}のおしへに違するところなど少々候へども、たとへば、律令格式は、まな(真名)をしりて候物のために、やがて漢字を見候がごとし。かなばかりをしれる物のためには、まなにむかび候時は人の目をしいたるがごとくにて候へば、この式目は、只かなをしれる物の世間におぼく候ごとく、あまねく人に心えやすからせんために、武家の人への計らひのためばかりに候。これによりて京都の御沙汰、律令のおきて聊{いささか}も改まるべきにあらず候也。凡法令のおしへめでたく候なれども、武家のならひ、民間の法、それをうかゞひしりたる物は百千が中に、一両もありがたく候歟。仍諸人しらず候処に、俄に法意をもて、理非を勘{かんがえ}候時に、法令の官人心にまかせて軽重の文どもを、ひきかむがへ候なる間、其勘録一同ならず候故に、人皆迷惑と云々、これによりて文盲{もんもう}の輩{ともがら}もかねて思惟し、御成敗も変々ならず候はんために、この式目を注置{ちゅうしおかれ}れ候者也。京都人々の中に謗難を加事{くわうること}候はゞ、此趣を御心得候て御問答あるべく候。恐々謹言{きょうきょうきんげん}九月十一日
武蔵守在
駿河守殿


さてこの御成敗式目を作られたことは、何をよりどころにして書いたのかと、きっとそしり非難する人もあろうかと思う。たしかにこれというベきほどの典拠によったことはないが、ただ道理(武士社会での慣習・道徳)のさし示すことをしるしたのである。このようにあらかじめ定めておかないと、あるいはことの正しいか誤っているかを次にして、その人の強いか弱いかによって判決を下したり、あるいは前に裁決したことを忘れて改めて問題にしたりすることがおこったりしよう。こんなわけだから、あらかじめ訴訟の裁決のあり方を定めて、人の身分の高い低いを問題にすることなく、公平に裁判することのできるように、こまかいことを記録しておくのである。この式目は、律令の説くところと違っている点が少しあるが、例えば、律令格式は、漢字を知っている者のために書かれているので、ほかならぬ漢字を見ているようなものである。かなばかりを知っている者の為には、漢字に向った時は、目が見えなくなったようになるので、この式目は、ただかなを知っている者が世の中に多いこともあって、ひろく人の納得しやすいように定めたもので、武家の人々の便宜になるように定めただけのことである。これによって、朝廷の御裁断や律令の規定が少しも変更されるものではない。およそ律令の条文は立派にできているが、武家や民間でそれを知っている者は百人千人の中で一人二人もいないだろう。そこで、人々の理解していないところに、にわかに法律の立場で理非を考え、法律を司る役人が自分の判断で、律令のあれこれの法令を適用するので、その判決は同じでなく人は皆迷惑すると聞いている。これによって、文字の読めないものもあらかじめ考えることができ、裁定のあり方もいろいろ変わることのないように、この式目がつくられたのである。京都の人々の中で、非難する者があったら、この趣旨を心得て問答しなさい。貞永元(1232)年9月11日 
武蔵守在
駿河守殿

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