Friday, May 17, 2013

映画とTVで学ぶ「英国史」- V


ハノーヴァー朝(1714~)

アン女王は17回妊娠するも、そのすべてが死産もしくは出産後数日中に幼児が夭折するという悲劇に見舞われます。1714年に跡継ぎをもうけることなくアン女王が亡くなった時点で血縁的に一番玉座に近かったのは、亡命したジェームズ2世の長子、メアリー2世とアン女王にとっては異母弟にあたるジェームズ・フランシス・エドワード・スチュアート、別名オールド・プリテンダーでした。

しかしカソリック教徒のジェームズはイングランド国会にとっては受け入れられず、したがってイングランド国会はジェームズ1世の孫にあたるハノーヴァー選帝侯の妃、ソフィアとその後継者ををアン女王の跡継ぎと指名します(1701年の王位継承法 Act of Settlement)。

残念ながら、ソフィア妃はアン女王の臨終の数週間前に死亡。イングランド王位の座はソフィアの息子、ハノーヴァー選帝侯ゲオルグ・ルードヴィッヒ、つまりイングランド王ジョージ1世に受け継がれることになり、王家はスチュアート朝からハノーヴァー朝にうつることになります。

イングランド国会にとっては、国王がプロテスタントであることが最低の条件だったわけですが、新国王ジョージ1世はプロテスタントである以上に外国人、早い話がドイツ人でした。必然として新国王の関心はヨーロッパ大陸における外交であり、イングランドをはじめとするブリテン島とアイルランドの内政はおろそかになりがちになります。

そこで不在がち、かつ外国人である国王に代わり議会の第一人者が首相(Prime Minster)として実際の政務を執り、国王は「君臨すれども統治せず」という英国式立憲君主制度と院内内閣制度が発展していきます。サウスシ―・バブル(South Sea Bubble)の名で知られる金融バブル事件(1720年)の後始末をやってのけ、事実上初代首相となったのはロバート・ウォルポールでした。

ウォルポールの場合は国王の意を受け、それを政策の基軸として国庫のカギを握る国会を運営することが首相の役目でしたが、そのうちに政治家とその政党が、国王の意志とは関係なく、独自の考えにおいて国益とするところを定め、それを目的に政策を定めるようになります。

こうした動きの中心となったのが、ウォルポールの政敵であったコブハム卿(Viscount Cobham)でした。コブハム派と呼ばれるグループは、イングランドの繁栄の基礎を積極的な植民地政策と活発な貿易活動に求め、対フランス戦争をヨーロッパの戦場のみに限定せず、全世界戦争として展開する道を歩み始めます。つまり名誉革命で芽吹いた大英帝国への夢はこの時代に実現へのスピードを増していくことになるわけです。

「大英帝国は、歴史上のうっかりから誕生した。」などといわれますが、実際にはこのコブハム派の思想から生まれたと言えるでしょう。

コブハム派の政治家で最も著名なのは大ピットとよばれるウィリアム・ピット(首相在任1766~1768)です。彼は7年戦争とよばれる対フランス戦争(1754~1763)においてリーダーシップをとり、この戦争において戦線を北米(ケベックの戦い1759年)、カリブ海、アフリカ、からインド(プラッシーの戦い 1757年)まで広げます。7年戦争が世界史上、最初の世界大戦といわれる由縁です。

映画の紹介もなく長々と歴史の推移の移り変わりの説明をしてしまいました。名誉革命以降のイギリスの歴史は「国王の歴史」から「国民の歴史」にうつっていったといえるでしょう。したがって王とその周辺の個人に焦点をあてた「ドラマ」として劇化することが難しいといえます。あまりご紹介できる映像作品がないのもそのせいです。

さてコブハム派の思想と、大ピットによる世界帝国政策の施行はアメリカ独立戦争という思わぬ副産物を生むことになります。世界規模の戦争の遂行には財源が必要であり、その目的のため、英国政府が安易に裕福な北米植民地に税を科そうとしたことが裏目にでます。8年間にわたる独立戦争の末、1783年パリ条約により英国はアメリカ合衆国となった北米植民地を失うことになります。

7年戦争後の好スタートとアメリカ独立戦争の失敗、そして対ナポレオン戦争の間、国王として君臨したのはジョージ3世(1738~1820、在位1760~1820)でした。「ドイツ人」であった祖父ジョージ1世や、父ジョージ2世と異なり、みずから「英国人」をもって任じていたジョージ3世でしたが、晩年は認知症を患うという不幸に見舞われました。

この国王の「ご乱心」を題材にしたのが「The Madness of King George」(1994年)という映画です。どうにも残念な邦題は「英国万歳!」。
 

もともとは「The Madness of King George III」という題名のヒット舞台劇でしたが、映画化に際してハリウッドのプロデューサーが、「George III」とローマ番号がついたタイトルのままだと、アメリカ人はシリーズものだと思って「パートIとパートII観てないんじゃ、パートIIIだけ観てもしょうがないよね...」となるだろうから...、という理由でタイトル変更したというのは有名なエピソードです。

映画の冒頭にでてくる国会開会における国王のスピーチの場面から、立憲君主制がある程度発展した当時における国王とその首相(劇中では大ピットの息子、小ピット)そして野党党首(チャールズ・フォックス)の関係がよくわかると思います。

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