Monday, November 26, 2007

千里走単猪 (其之二)

一泊目の投宿先を昆明翠湖賓館にしたわけは、このホテルに邱永漢さんが自ら出資した雲南コーヒーの店、「Q's Coffee」を出店しているからだ。昆明でトップクラスのこのホテルは昆明の市民憩いの場、翠湖のほとりに立っている。

たしかにごリッパなホテルだ。しかし翠湖の方は以前訪れた杭州の西湖同様、あまり感動しなかった。安っぽい中国風の東屋が点在し、そこらここらで中国人たちが集まって歌ったり踊ったりしている。なにやら元紅衛兵みたいな中年集団が勇ましい歌を歌っているのを遠巻きに眺めつつ、30分も歩き回ったところで早くも食傷気味。さっさとホテルに引き返し、くだんのコーヒーをごちそうになることにした。

コーヒーは確かにうまかった。酸味が上品。でもあともうちょっとコクが欲しいところ。しかしコーヒーより感心したのはお店のウェイトレスの接客態度が驚くほど洗練されていたこと。中国人従業員相手にここまで教育を徹底させているということに、関係者の努力が偲ばれる。コーヒーだけならどこでも手に入る。しかし、こうした上質のサービスを一世代前までは「接客サービス」という概念が存在しなかった中国に根付かせた功績は尊い。「ものつくり」と「ひとつくり」の結晶だ。さすが。

そんなこんなしているうちに、夜になってしまった。市内観光は後日とし、ホテル内を散策。ジム、プール、サウナにマッサージのサービスがあるというが、昨年のヴェトナムでの経験からあまりこういう場所で自分の局部を初対面のオバチャンにいじられるのはゾッとしないので、敬して遠ざけさせてもらう。


ホテルの3階にバーがあるというのでのぞいてみたら、超豪華ケンランな中国風ナイトクラブだった。ようするに大音響カラオケとダース単位のホステスおねえちゃんがはべる場所。エレヴェーターの扉が開いたとたんに、閲兵式よろしく左右に並んだおねえちゃんたちが一斉に中国語で

「いらっしゃいませ!」

(多分...)

と叫んだのに怖じ気づいてしまい、こっちもパス。

フロントで翌日の石林行きのタクシーを予約し、もう一泊する旨を伝え、館内の中国レストランで點心喰って(通常メニューは終わっていて夜食メニューだった)、この日は終わり。

翌朝8時に予約したタクシーに乗り、世界遺産の石林へ向かう。ガイドブックでは昆明から1時間ちょっとの距離。しかしタクシーは昆明市の朝のラッシュアワーにつかまり、市街地を出るのに一時間かかってしまった。市の環状道路(多分)の交差点にあたる場所では、「大理」だとか「貴陽」、「重慶」と書かれたミニバスたちが客待ちであちこちに路上駐車していて、渋滞を悪化させている。排気ガス汚染がものすごい。車の窓をしめきっても、排気ガスのにおいが鼻の奥を刺激する。

なんとか市外に脱出。

観光に力を入れている雲南省。さすがに昆明と石林をつなぐ「昆石高速道路」は快適な道だった。しかし道路脇に書かれている交通標語らしきものの存在は解せなかった。もちろん中国語なのだが、横書きの文章は、日本語同様、左から右に書かれている。中国では車は右側通行なので、道路の右側の壁に書かれている標語は、車の進行方向の一番遠いところからその文章が始まっているのだ。ようするに、車を運転しているものは文章のケツから読み進めていくことになる。もしかしたら反対車線の車に読ませるために書いてあるのかな、とも思ってみたが、中央分離帯の生け垣のせいで、反対車線の車からこっち側の壁の標語は読めない。まぁ、国はちがっても行政のムダというものはどこにでもあるものなのだなと納得。

約2時間かけて石林に到着。タクシーは石林入り口そばの飯屋の前につけた。

(あぁ、多分タクシーの運ちゃんとグルなんだろうな~)

と分かっていても、別に怒る気もしない。彼らも、もちつもたれつなんだろう。

車を降りたとたんに飯屋のオバチャンが飛び出してきて、どうやらコーヒーを進めているらしい。それじゃ失礼して...とお世辞にも美味くないコーヒーをすすっていたら、

「今日のあなたのガイドです!」

と当地少数民族のサミ族の民族衣装をまとった女性を紹介された。

頭を巡らせてガイド嬢をみると、これが超弩級美人。な、な、なんなんだ、なんなんだ!と思わず取り乱す私。スラっと背が高く、しなやかにのびた四肢に、流れるような白い民族衣装がよく似合う。色白の肌に、形のよい鼻梁。ぱっちりとした目。婉然とした微笑みを浮かべてこっちを見ている。

(あ、ありがとうございます!邱センセー!!やっぱりあなたは正しかった!!!)

思わずポーッとしてしまったが、ハッと思い返して、片言の中国語で、

「英語はなせますか?」

と聞いたら、

「ダメ」

とのお答え。

約3秒間ほど苦渋の思案をした後、

「すいません。英語のできる人お願いします...」

これを聞いて、美女は「プイッ」と去っていってしまった...。

One that got away... (写真だけでも取らせてもらえばよかった...あぁ...)

代わりに登場したのが、この御仁。

英語がしゃべれるガイド。

男性。

当年24歳のアヘイ君(アヘイとはサミ族の言葉で「男の子」という意味の普通名詞らしい)。

なんか幸先悪るい様な気がしてきた...。

Sunday, November 25, 2007

千里走単猪 (其之一)

そういうわけで(どういうわけだ?)中国旅行いってきました。

妻子のロンドン滞在が長引き、一人で家でくすぶっているのもあきあきしてきましたし、ラグビーもクリスマス前の試合を消化。今出かけなきゃ、12月は仕事で出張が続く予定なので、今年分の有給を使い切れない。そんなこんなで「え~い、ままよ...」と旅の空を目指すことにしたのです。

普段は腰が重い方なのですが、ときおりこのようにやむにやまれぬ「漂泊」の思いが突き上げてきます。Wanderlustというやつですな。去年も突然思い立ってフランスにいっちゃったっけ。

さて行き先はどうしよう。

妻は「タイでもいってくれば」といってくれたのですが、秋空の香港で未だに汗ばんでいる私ですので、暑そうな国にいくのは乗り気じゃない。いろいろ思案したあげく、以前から気になっていた「雲南」に進路をとることにしました。北京とか上海であれば、これからもいく機会は折々ありそうですが、さすがに雲南は自分で縁を作らなきゃ一生いけそうもないので。邱永漢さんも、そのネットのコラムで「一年中春めいた気候で美人が多い」とおっしゃっていたので、以前から頭の片隅にとどめおいたのです。ま、「美人」はあくまでオマケということで。

まるまる一週間休みをとり、銀行口座とカードの残高を確認し、飛行機のチケットを予約。いちおう英語のガイドブックを買い(後で分かったのだが、これがイマイチ使えない)、初日と最終日のホテルだけを予約して、レッツ・ゴー!

だいじょうぶだろうか...なさけないことには、未だに中国語全然しゃべれんのじゃ、ワシ。

(一応フレーズ・ブックみたいなのを一冊バッグにねじ込んでいきましたが、結局あまり使わなんだ。)

出発前の金曜日、ここ二ヶ月間しごいてきた香港人部下のジョン君に「あとをたのんまっせ」といったら「お土産は雲南名産のプーアル茶をよろしく。あと少数民族の女には気をつけてください。あいつら女系家族だから気がつよいですよ。」などと言われてしまった。すっかりうちとけてしまったのう、ワレ。

出発当日。荷物は貴重品用のデイパックとトラベルバッグのみ。自宅からタクシーで香港国際空港へ。30分で空港に着く。この簡便さ。何度も言っているが、我が祖国の成田空港にくらべると涙が出てくる。

雲南省の省都、昆明行きのドラゴン(港龍)航空の飛行機は...小さい...ま、二時間弱の旅程だもんね。

さらば香港...と窓の外の景色を観るうちに、なぜか無性に顔が笑ってしまふ。まだ飛行機に乗ったばかりで離陸もしていない。だが、旅に出るときの押さえがたい高揚感が自然と顔に出てしまう。やはり葛飾出身の私には「寅さん」のDNAがはいっているのだらうか。

「さくら...兄ちゃんは旅に出るよ...。」

高校時代に暗記した芭蕉の「奥の細道」の序が頭をかすめる。

「月日は百代の過客にしてゆきかう年もまた旅人なり...」

そんなこんなとりとめもないことを考えているうちに眠ってしまった。

気がついたら、飛行機は昆明めざして降下中。あれよあれよという間に着陸。おいおい。早いよ。オレの気持ちはまだ香港なんですけど。

ちょっと情けないが一泊目のホテルに迎えの車を頼んでおいた。なんか憧れていたんです。あの空港の到着出口で自分の名前が書いてあるカードをもって待っていてくれるというやつに。なんか特別に歓迎されている気がしませんか(オレだけか?)。

まったくアホだが、出口でたむろしている中国人の集団をなるべくさりげなく(しかしドキドキしながら)眺めると、一泊目の昆明翠湖賓館の兄ちゃんがホテルの制服を着て私の名前のカードを持って立っていた。

正直「ホッ」とする。到着したとたんに空港で迷子なんていう情けない事態は避けられた。

兄ちゃんにトラベルバッグをもってもらい、駐車場へ。屋外に出たとたんに物陰から物乞いの女の子が飛び出してきた。小学校低学年ぐらいだろうか。薄汚いピンクのセーターを着て垢に汚れた手の平を差し出す。よくみたら少女が飛び出してきた方向に彼女の母親らしき人物が他の2・3人の子供たちと一緒に座っていて、出てくる旅行者を指差して子供たちに

「そら、いっておいで...」

みたいに指図している。

オリンピックを控えた中国では、こういう物乞い、乞食のたぐいに厳しい態度で臨んでいると聞いていたが、さすがに雲南くんだりまでは中央政府の威令は行われていないのだろうか。しかも空港出口のすぐ外で、警官がウヨウヨしている場所だ。

まぁ乞食が乞食して糊口をしのげて、彼らが犯罪者化していないということは、それなりに社会が豊かであるという証左でもある。もっとも警察が法令にかかわらず、その存在を容認せざるを得ないということは、社会の貧困階級が厳然として存在しており、権力者にしてみればなす術がないということの証明でもある。中国共産党も大変だね。

手の平を突きつけてくる少女をなるべく視界に入れないように、目を伏せてホテルのベンツに乗り込む。私も海外生活が長いが、いまだに「甘ちゃん」日本人である私にとって、こういう貧富の差がはっきりとした構図に自分が当事者として出演してしまうのには未だに慣れない。

あまり性急な比較は避けるべきだろうが、日本のホームレスが社会の「落伍者」であるのにくらべ、中国のこうした少年少女は自分たちが「落伍」したのではなく、もともと「落伍」した階級に生まれ出てしまったのだ。

彼らが成人するころには中国の貧困層は救われているのだろうか。中国社会が日本なみの豊かさを享受するためには、中国経済は今の10倍規模に成長しなければならないという。

前途未だ遠し、である。

(つづく)

Wednesday, November 14, 2007

Hugh Jackman

最近気になる俳優、Hugh Jackman。(日本語のファンサイトはこちら









初めてその名を聞いたのはKate & Leopold(邦題...「ニューヨークの恋人」...)のころ。なんかは初めて聞く名前に初めて見る顔で、「ははぁ...さてはメグ・ライアンちゃん、トム・ハンクスにふられたな...」ぐらいにしか考えていませんでした。



その後、「X-Men」で狼男のWolverineをやることになった、と聞いても、

「フ~ン...売りだ出し中なのね...」

ぐらいにしか思っていなかったのですが ...



実は彼がもともとはミュージカル出身と聞き、ネットで検索してみたら... もともと母国のオーストラリアで「美女と野獣」のガストン役で世に出たらしい。

そしてオーストラリアでロイド・ウェバーの「サンセット大通り」の準主役。



この役でイギリスの有名舞台監督、Trevor Nunnの知己を得て、Nunnのイギリスのナショナル・シアターの「オクラホマ!」で主役、カーリーに抜擢。これが大当たり。


彼のハリウッドでのキャリアはここまでの大活躍のオマケだったわけだ。

その後、オーストラリア出身の歌手、Peter Allenの生涯を描いたミュージカル「The Boy from Oz」の主役をブロードウェイでつとめてこれが一大センセーションになったとか。その年のトニー賞をかっさらった。


この2004年トニー賞でのパフォーマンスはすごい。




その翌年の2005年トニー賞でのパフォーマンス。



う~ん...歌って、踊れて、演技ができる...そして「華」がある俳優。なんかスクリーンに閉じ込めるのがもったいないぐらいだ。こんな俳優、フレッド・アステア、ジーン・ケリー以来じゃないか?

とにかく今、注目しています。できたら映画はもういいから、舞台やってくれ~。

Tuesday, November 13, 2007

Self-Depreciation is the Most Gracious Form Humour

Dolly Parton on Whitney Houston's success with "I Will Alaways Love You", a song originally written by Parton:

"It was my song, it was her record, and it made us both rich. I will always appreciate her - I made a lot of money, and I need a lot of money, because it costs a lot of money to look this cheap."

Monday, November 12, 2007

Talladega Nights

独りモンの映画鑑賞、その4

Talladega Nights: The Ballad of Ricky Bobby」(2006年作品)
映画の公式サイト

初めから違う映画の話で恐縮だが、今年の夏、アメリカで「Hairspray」という映画が公開された。50年代のアメリカを舞台にしたミュージカルの映画化なのだが、このミュージカルのオープニング・ナンバーが「Good Morning Baltimore」(おはようボルティモア!)という曲。主人公の太目の女の子が歌うこの曲。「ボルティモアはすばらしい町、毎日チャンスがあふれているわ〜」みたいな曲なんだが、この曲を例えばニューヨークのブロードウェイの舞台で聞けば、ミュージカル作者の皮肉というかアイロニーが伝わると思う。ボルティモア...全米でデトロイトに次いで危険な町らしい。人口の22% が貧困層...。

でもこのミュージカル映画が、例えば日本や香港なんかで公開されるころには、観衆はそのアイロニーを理解しない、またできないと思うんだよね。

ミネソタあたりの中西部アメリカ人でもこうした皮肉は解せないんじゃないだろうか...。

本題に戻りますが、このTalladega Nightsも、そうした「もしかしたら観衆に理解されていない皮肉」がてんこ盛りな映画です。

最近売り出し中のコメディー俳優、Will Ferrellがカーレースのドライバーを演じる。このカーレース、NASCARというストックカー・レース。最近アメリカでアメリカン・フットボールに次ぐテレビ視聴者数を稼いでいるという。前回の大統領選挙では「サッカー・マミーにNASCARオヤジ」ということで、アメリカのハートランドの中流家庭の代名詞になったぐらい。(つまり子供たちにサッカーをやらせるお母さんと、休日は家でカーレースをテレビ観戦するオヤジということ。)

NASCAR自体、ノース・カロライナ州に端を発しており、アメリカ南部を中心に盛んです。

ようするに、まぁ早い話、誤解を恐れずに言えば、ブッシュ大統領のコアな支持者層とNASCARファンはかなり重なるわけです。

そしてこの映画。NASCARの興奮を描きながらも、その背景となるアメリカ・カルチャーを散々ばかにしまくっているのです。

主人公のリッキーはひょんなことからNASCARのドライバーになるのですが、これがマイケル・ムーアさんがいうところの「バカでまぬけな白人アメリカ人」の典型。やたらと神様とジーザスの名を連発するわりには、食前のお祈りでは宗教無知をさらけ出し、しかも食べるものはファースト・フードばっかし。なにが何でもナンバー1にこだわり、勝つことのみに価値観を見いだしている。そんな彼がゲイでフランス人のドライバー(演じるのは「Borat」のサーシャ・バロン・コーエン...爆笑!)に破れて打ちのめされ、ニューエイジ趣味なお母さんの助けで復活する...というのがあらすじ。

よくもまぁバカにしまくったりという感じです。

リッキーがフランス人ドライバーに組み伏せられるシーン。

「『オレはクレープが好きだ』と言え。じゃなきゃ腕をへし折るぞ。」
「いやだ!絶対言わないぞ。」
「そうだリッキー、いっちゃだめだ。フランス野郎の言いなりになるな。」
「おぉ!でも『クレープ』ってなんだ?」
「あのうすいパンケーキのことだろう。」
「あぁ、あれか。あれオレ大好きだ。」
「そう。アメリカ人、『クレープ・スゼット』を知っているか?」
「なんだそりゃ。」
「うすいパンケーキに砂糖とレモンをまぶしたやつだ。」
「あぁ!あれオレもう大好物!」
「ほら、だったら『オレはクレープが好きだ』といえ。」
「いやだ〜!」

フレンチ・フライをフリーダム・フライと改名したアメリカ人を彷彿とさせますな。

「アメリカ人、オレがなぜアメリカにやってきたか分かるか。」
「公立学校教育と水道水の質、そしてブッシュ大統領の叡智。ほかの移民たちと同じ理由だろう?」

この映画DVDの特典がふるっていて、キャスト・スタッフのコメンタリーが映画公開の25年後ということになっている。

「いまミズーリ州に住んでいるんだって?最近そっちはどうだい?」
「ご存知のように、地球温暖化によりミズーリ州の大半水没しています...。」

またDVDの冒頭にはこんな断り書きが...

「この映画の内容はソニー、およびソニー・ホーム・エンターテイメント社の意見を反映するものではありません...」

一見の価値はある映画です。

Sunday, November 11, 2007

Love Actually

独りモンの映画鑑賞会、その3

Love Actually」(2003年作品)

「イギリス万歳」

...ってな感じの映画です。大好きです。

監督・脚本はリチャード・カーティスさん。いうなればイギリスの三谷幸喜さんですね。

オックスフォード大学在学のころから「ミスター・ビーン」ことローワン・アトキンソンと親友で、そのころから彼と一緒にコメディー・スケッチを作成していたらしい。

その後、TV向けシチュエーション・コメディー(Sit Com - シットコム)の作成を企画し、不朽の名作「Blackadder」シリーズを世に送り出す。1980年代に一世を風靡したこのシリーズ。主役のエドマンド・ブラックアダーはシリーズを通じて旧友のミスター・ビーンがこれを勤めた。第二シリーズから脚本作りに参加したのは、これまた80・90年代イギリスを代表する「サヨク」系コメディアン、ベン・エルトン。

私がイギリスに流れ着いたのは1989年だったので、大学での同級生は皆この「ブラックアダー」シリーズとともに育ってきた世代。話を合わすためにも、テレビの再放送を見たり、シリーズ常連の俳優の名前を覚えたりしたものです。(ヒュー・ローリースティーブン・フライリク・メイヨルなどなど...)

もちろんカーティスさん、「ミスター・ビーン」シリーズにもプロデューサーとして携わってきました。

その後カーティスさんは映画「フォー・ウェディングス」(1994年作品)の大ヒットで映画界進出。次の「ノッティング・ヒル」(1999年作品)は本人も言うように「4年近くかけて脚本を書いていたのに、映画ができてみたらフォーウェディングスそっくりの作品になっていてガックリ...」。

その後、ブリジット・ジョーンズの脚本製作にも参加したりしながら、ついに自ら監督・脚本でメガホンを取った(日本映画界な表現だな)作品がこれ。

ようするに、今イギリスの第一線で働いている世代の人たちは、みんなカーティスさんのユーモアと共に育ってきたようなものなのです。

この映画に出演している俳優さんたちも、もう皆さんお馴染み。笑えるのはこの映画の出演者と、あのイギリス俳優総出演シリーズ、「ハリー・ポッター」の出演者がメチャクチャかぶっているということ。まぁさすがにヒュー・グラントやコリン・ファースはハリー・ポッターに出ないだろうけれど...この二人は「ブリジット...」つながりだし。

そう考えてみると、この映画の登場人物たちの複雑な友人・恋人関係は、実際における俳優たちの過去の出演作品を反映しているようなものですな。

個人的にはこの映画の時分、まだ自意識過剰に陥っていなかったころのキーラ・ナイトレー嬢が好きです。

おまけ。歌が上手くて可愛いオリヴィア・オルソン嬢。

Saturday, November 10, 2007

Teacher and Pupil

独りモンの読書遍歴、その2。

日本歴史を点検する」対談海音寺潮五郎/司馬遼太郎 1974年講談社

このころの司馬さんは謙虚だったんだなぁ...。

アイゼンハワーの軍産複合体に関する批判を取り上げているあたり、さすがは海音寺先生です。

Friday, November 09, 2007

Yoritomo

独りモンの読書遍歴。

永井路子著「つわものの賦」初版発行1978年 文藝春秋

ニューヨークから帰ってきて以来、どうも「身辺整理」が趣味になてしまった。どうも今現在の私の人生のテーマは「身軽」らしい。

そんなわけで、訪米中お蔵漬けになっていた本を一冊づつ持ち出してきては、手放すべきか座右におくべきかを思案しているのだが、さすがにここ五・六年の度重なる引っ越しのお供をしてきた蔵書には捨てがたいものが多い。

この本もそんな本の一つ。

永井さん、大好きです。

歴史文学における女性の視点というのは、もっと注目されていいと思う。あまりに大雑把な言い方は避けるべきだろうが、どうも男の視点から論じる歴史は戦争と権力あらそいの描写に終始してしまい、結局は登場人物の心象風景がおざなりになり、結果それらの人々の行動の動機付けが曖昧になり、歴史そのものが生きてこない。マンガ道でいうところの「キャラが立たない」わけですね。

結局、歴史文学はいうに及ばず、歴史の研究にも「人間性透察」の能力は欠かせないと思うわけです。

尊敬する海音寺先生は、もちろんこの偉大なる例外になるわけだけど、その海音寺先生も薩摩隼人の男気が先にいきすぎてしまっているような印象を受けるときがままある。これはもう個人のすき好みの領域かもしれないが、海音寺先生の「謙信びいき」はこのひとつで、たしかに「義」の為に「後に続け〜」と単騎で越後から関東に馳せかけてくる戦国武将の姿には感銘するが、私はこの手の戦争屋は好かんのだ。

そんなわけで、永井さんや、杉本さん、そして最近では塩野さんなんかの著作は貴重だなと思うわけです。

のっけから話がずれましたが、この本は永井さんが「炎環」「北条政子」で文壇デビューして以来、自家薬籠中のものとしていた「源平/鎌倉時代」に関する彼女の結論的「史伝」です。

以前は「頼朝の旗挙げ」、「源平戦争」、「鎌倉幕府の創設」という年表的かつ表層的扱いをされていたこの時代を「東国武士の勃興」、「東国、西国、奥州の多層的権力構造」というテーマで捉え、頼朝、後白河、北条義時、三浦義村らの主要登場人物の人間性に深く切り込んでいます。

誰だったか忘れましたが、「鎌倉時代以前の歴史は日本の歴史ではない」といった人がいたとか。たしかに平安王朝貴族の文化・文明はその後の日本の歴史からみれば異質なものかもしれませんが、この論調で「日本の古代」を完全に否定してしまうのもちょっと乱暴がすぎるとも思えます。

それよりも注目すべきは「鎌倉幕府」に象徴される武家政治の登場により、日本において初めて「生産者階級」による政権が登場したことでしょう。「鎌倉武士」はその後の戦争屋的性格を深めていった戦国武将や、官吏的な江戸時代の武士とも違い、その基本は「開拓者」であり「一所懸命」の地主階級。戦乱となれば「いざ鎌倉」で駆けつけますが、普段はみずから汗を流し家ノ子、郎党を指揮して農事に励む親分さんなわけです。

こうした「武士」社会の掟が、外来の建前の概念に基づいて成立され、歴史の流れの中で形骸化した律令制度にとってかわり、のちに北条泰時の手により「御成敗式目」となった次第はみなさんご存知の通り。

泰時は後に、「朝廷の方々のいわれるような難しいことは知らないが、この式目の内容は我々にとっては『道理』となっているものだ。だから自らの無知に臆することなくこれを示せ。」と言ったという。(下に参考までにこの「泰時消息文」の読みくだし文と現代語訳を載せときます。)

そしてこの「道理」を法源とする式目の効力は、明治維新により近代法治国家が生まれるまで存続したのである。

(赤穂浪士の「喧嘩両成敗は御成敗式目以来の云々」という台詞はここからきているわけですね。なお、徳川家康は「吾妻鏡」を座右の書としていたらしい。)

今の時代にも「道理」の政治を行ってくれる人が欲しいところ。

個人的に吾妻鏡の中で一番好きなシーンは、頼朝の征夷大将軍任命の勅使応対役を承った三浦義澄が勅使に名を尋ねられ、

「三浦ノ次郎」

と名乗ったという一段。本来であれば義澄には「三浦介」という官名があったのだが、あえて勅使に対し律令制度の下の官名を名乗らず、坂東風に名乗ったわけだ。これに対し、吾妻鏡は「面目絶妙」と評している。

なんかヤクザが仁義を切っているみたいなところもありますが。

思えば私の永井さんとのおつきあいは高校生の時が最初だったのかもしれない。日本史の授業で担当の柴田先生が鎌倉の八幡宮での実朝暗殺の段になって突然熱の入った謎解き(暗殺の黒幕は誰だ!)を披露してくれたのを今でも鮮明に覚えている。あれは永井さんが提唱した説だったのだなとわかったのは後のこと。

暗殺の黒幕をお知りになりたい方は、この本を手にとって読んでみてください。

この時代、個性的に過ぎてアクの強そうなキャラがたくさんいるが、やはり一番尊敬できるのは武家政治の根本を築いた北条義時と泰時の親子、そして義時の弟、時房でしょう。北条家は1333年(イチミサンザンなどと覚えたっけ)に新田義貞に率いられた軍勢に滅ぼされますが、その想像を絶する謀略と腹黒さ(?)の歴史とは裏腹に、この一族は代々清貧で過ごしたらしい。(末期の奢侈に関しては後醍醐側のプロパギャンダとの説が有力。)彼らの政権が滅んだ理由は、時代ととも発達した経済環境についていけなかったということが大きいのでしょう。最後は高時はじめ一族郎党ともども七百人余が鎌倉の谷(ヤツ)で見事自害に及んだとのこと。北条家というものが、それだけ最後まで支持されていた政権の担い手だったという証左ではないでしょうか。(鎌倉の腹切りやぐら(東勝寺の址)は必見スポット。霊感の鋭い人には怖いかもしれませんが、ちょっとゾッとします。)

私個人的には、清貧でありながら政敵にはとことんアクドイ、さりながらゴリッパな北条さんちも面白そうですが、この時代で興味のつきない人物はやはり頼朝でしょう。12・3の歳に平治の乱の敗戦により、恐怖の逃避行、親兄弟の横死、死刑を一等減じられ流刑...などなどのトラウマを経験しながら、正妻のヒステリーにもめげない立派なスケベ親父に成長し、ガラの悪いやくざの親分衆みたいな東国武士に担がれながら、煮ても焼いても食えない政治家に大成したこのおじさん。会ってみたら面白そうです。私のイメージでは大河ドラマ「草燃ゆる」で石坂浩二さんが演じていた頼朝が印象に残っているのですが、最近の「義経」では中井貴一クンが頼朝をやっていたみたいでしたね。

「みずしま...もとい、よりとも〜。一緒に日本...京に帰ろう!」

...ネタが古いか。

しかし奥さんの妊娠中の浮気はよくないね。

ちなみに上の絵は前田青邨画伯の「洞窟の頼朝」。旗挙げの後、石橋山での戦いに破れ伊豆山中を逃げ回り洞窟に隠れた頼朝主従の群像です。負け戦にグッタリという風情の中で独り眼光鋭く、うっすらと不敵な笑みさえ浮かべているような頼朝の表情。好きな絵です。

この後、主従は二手に分かれて伊豆を脱出し、海路房総半島に向かうのですが、その途上相模湾か東京湾海上で主従再会します。その様子を同じ青邨画伯が絵にしたのがこれ。


ちょっとまとまりがなくなってきたので、ここら辺でおわり。









貞永式目 唯浄裏書本{ゆいじょううらがきぼん} 

さてこの式目をつくられ候事は、なにを本説{ほんせつ}として被注載之由{ちゅうしのせらるるのよし}、人さだめて謗難{ぼうなん}を加ふる事候歟{ことにそうろうか}、ま事にさせる本文にすがりたる事候はねども、たゞどうりのおすところを被記{しるされ}候者也。かやうに兼日{けんじつ}に定め候はずして、或はことの理非をつぎにして、其人のつよきよはぎにより、或{あるいは}御裁許ふりたる事をわすらかしておこしたて候。かくのごとく候ゆへに、かねて御成敗の躰{てい}を定めて、人の高下{こうげ}を論ぜず、偏頗{へんぱ}なく裁定せられ候はんために、子細{しさい}記録しをかれ候者也。この状は法令{ほうりょう(律令)}のおしへに違するところなど少々候へども、たとへば、律令格式は、まな(真名)をしりて候物のために、やがて漢字を見候がごとし。かなばかりをしれる物のためには、まなにむかび候時は人の目をしいたるがごとくにて候へば、この式目は、只かなをしれる物の世間におぼく候ごとく、あまねく人に心えやすからせんために、武家の人への計らひのためばかりに候。これによりて京都の御沙汰、律令のおきて聊{いささか}も改まるべきにあらず候也。凡法令のおしへめでたく候なれども、武家のならひ、民間の法、それをうかゞひしりたる物は百千が中に、一両もありがたく候歟。仍諸人しらず候処に、俄に法意をもて、理非を勘{かんがえ}候時に、法令の官人心にまかせて軽重の文どもを、ひきかむがへ候なる間、其勘録一同ならず候故に、人皆迷惑と云々、これによりて文盲{もんもう}の輩{ともがら}もかねて思惟し、御成敗も変々ならず候はんために、この式目を注置{ちゅうしおかれ}れ候者也。京都人々の中に謗難を加事{くわうること}候はゞ、此趣を御心得候て御問答あるべく候。恐々謹言{きょうきょうきんげん}九月十一日
武蔵守在
駿河守殿


さてこの御成敗式目を作られたことは、何をよりどころにして書いたのかと、きっとそしり非難する人もあろうかと思う。たしかにこれというベきほどの典拠によったことはないが、ただ道理(武士社会での慣習・道徳)のさし示すことをしるしたのである。このようにあらかじめ定めておかないと、あるいはことの正しいか誤っているかを次にして、その人の強いか弱いかによって判決を下したり、あるいは前に裁決したことを忘れて改めて問題にしたりすることがおこったりしよう。こんなわけだから、あらかじめ訴訟の裁決のあり方を定めて、人の身分の高い低いを問題にすることなく、公平に裁判することのできるように、こまかいことを記録しておくのである。この式目は、律令の説くところと違っている点が少しあるが、例えば、律令格式は、漢字を知っている者のために書かれているので、ほかならぬ漢字を見ているようなものである。かなばかりを知っている者の為には、漢字に向った時は、目が見えなくなったようになるので、この式目は、ただかなを知っている者が世の中に多いこともあって、ひろく人の納得しやすいように定めたもので、武家の人々の便宜になるように定めただけのことである。これによって、朝廷の御裁断や律令の規定が少しも変更されるものではない。およそ律令の条文は立派にできているが、武家や民間でそれを知っている者は百人千人の中で一人二人もいないだろう。そこで、人々の理解していないところに、にわかに法律の立場で理非を考え、法律を司る役人が自分の判断で、律令のあれこれの法令を適用するので、その判決は同じでなく人は皆迷惑すると聞いている。これによって、文字の読めないものもあらかじめ考えることができ、裁定のあり方もいろいろ変わることのないように、この式目がつくられたのである。京都の人々の中で、非難する者があったら、この趣旨を心得て問答しなさい。貞永元(1232)年9月11日 
武蔵守在
駿河守殿

Thursday, November 08, 2007

Hubris

むかし西洋人は、

「鳥目で近眼の日本人に飛行機の操縦はできない」

といっていたらしい。

最近の日本人は、

「日本人が開発した高度な製造技術は日本の文化に根付いたもので、中国人には真似できない」

などといっているらしい。

そのむかし室町のころ、中国の官窯の陶器のコピーを必死になって作っていた歴史を忘れてしまったみたいですね。

中国の怪しげなミッキー・マウスもどき、ドラえもんもどきの遊園地を笑う日本人は、日本の天下り役人が経営する遊園地の殺人ローラーコースターのことをどう思っているのだろうか。少なくともコピー・キャラの着ぐるみのせいでお客さんが死ぬということは無いだろう。(着ぐるみの中の人の労働環境に関しては心もとないが...。)

製造業に携わっていない人に限って、

「日本はものつくりの国だから」

なんて言う。

そういえば「ものつくり大学」なんてのを作ったらあっというまに汚職の温床になってしまっていましたっけ。覚えている人いるかな...。

そんなかけ声ばかりの「ものつくり」が日本国内のメディアで幅を利かせている裏で、日本の製造業は拠点をどんどん海外に移していっている。そうした現場で活躍できる人、価値がある人とは、「ものつくり」の本来の精神を現地の従業員に伝えることができる人たちだ。

ようするにこれからの時代は「ものつくり」と同時に「ひとつくり」の才能が求められている。

この国際化社会・世界的大競争時代に場違いな、そして偏狭で不健康な国粋主義的「ものつくり」の優越性を主張している場合ではないのだよ。

Wednesday, November 07, 2007

In The Name Of God...

ゴアさん...まだ生きていたのね...。

Tuesday, November 06, 2007

Once Upon A Time In America

ニューヨークで購入したMacBookPro。そのiMovieで作ってみました。

ク、クリエイティブ...か?

Monday, November 05, 2007

Ambition's Debt

いろいろとこの人の周辺が騒がしいが、テロ特対法の期限切れの一番大事な意味合いは、日本が国連安保理事会の常任理事国入りを実質上あきらめたことを世界に向けて発信したということでしょう。

後になって「そんなつもりは無かった」「別の方法での国際支援を考えていた」なんて言ってみても、給油活動の継続を望んでいた国々が次回日本の常任理事入りを支持するとは思えないし、日本の常任理事入りに反対する国々にしてみれば絶好の反対理由を作ってしまったということだ。

「国際平和活動を国内の政局の取引に使うような国は信用ならん」

といわれたら返す言葉が無いでしょうに。

前から言っているが、凡人に「国家百年の大計」を語らせるのは到底無理だとしても、せめて10年先を見た政治をしてもらいたいものだ。

もっとも、ここ数年の内に総理にならなければ心臓がもたない可哀想な人にこんな期待は無理か。

どうせなるようにしかならねぇってことよ...。

Friday, October 26, 2007

Le Hussard sur le toit

独りモンのマイナー映画鑑賞、その2.

Le Hussard sur le toit」(1995年作品)

1990年に大作「シラノ・ド・ベルジュラック」でヒットを飛ばしたジャン-ポール・ラプノー監督が、

「オレって...もしかして時代物が得意なんじゃないかい?」

と、いうわけで取組んだ時代劇(英語ではよく"コスチューム・ドラマ"なんて言い方します)第2弾。

題名の直訳は「屋根の上の軽騎兵」。英語の題名もそれを受けて「The Horseman on the Roof」だったのですが、いつもながら邦題は...。

あぁ...なんということだぁっ!

「プロヴァンスの恋」

...いったいどこをどうひねったらこういうネーミングになるのでしょうか。たしかにお話はプロヴァンス地方のエクス・アン・プロヴァンスで幕を開けますが、後はずっと仏伊国境沿いの山岳地帯が舞台です。まったく、いったいなんでたって何でもかんでもお昼の不倫メロドラマみたいな題名をつけるのだろう?まぁ、もっとも不倫の恋のお話ですが。

(でも「屋根の上の...」なんていったら日本のお客さんは森繁のテヴィエじいさんを思い浮かべてしまいそうだな...。)

お話は、早い話が「ロード・ムービー」。

1832年。コレラが大流行するフランスで偶然出会った若い男と女。男はイタリア解放を夢見る革命の志士にしてピエモント王国騎兵大佐、アンジェロ・パルディ。女は侯爵夫人ポーリーヌ・ド・テウス。追っ手とコレラと感染隔離しようとするフランス軍兵士を逃れる二人の運命はいかに?!

しかしまぁ、フランス人ってこの手の

「若い男と年上の女」

という構図が大好きですな。


映画的には、このころが多分

「旬、真っ只中!」

だったジュリエット・ビノシュお姉さまが見所...オレだけか...いやそんなはずは無い...抑えた演技と、時々見せる「フレンチおばさん」の匂いたつ色気がただ事ではありません。もっとも「フレンチおばさん」の賞味期限は「赤福」なんてメじゃないぐらいなもんですが。

相手役のオリヴィェ・マルティネス君もなかなか見せてくれます。

でも多分この映画で一番美しいのは、背景となるフランスの風景でしょうね。初めてこの映画が封切られたとき、映画館で見ましたが、たしかにこの映像美には圧倒されます。

Battles Without Honor And Humanity

こんな記事がありました

「米兵の身柄要求見送り=任意捜査を継続-女性集団暴行容疑・広島県警」

以前も述べましたが、日本人の場合、痴漢したのしないのウヤムヤなところでは躍起になって「落とす」ことに執着するくせに、アメリカさんの場合ですととたんに及び腰になるわけです。

昔はこういう人たちを「国賊」と呼んでいましたが、いまではなんと呼ぶのでしょうかね。

広島の事件のようですが、戦後なぜ広島ヤクザが天下に名をとどろかせるにいたったのか、県警はもう忘れてしまったんでしょうか。そんな疑問もこめて、このエントリーにこのタイトルを選ばせてもらいました。

要するに、肝心なときに国民を守ってくれない国家権力など「いらない」ということです。

「平成の平安貴族」である日本の官僚は、自分たちの「地位」に胡坐をかき、そのシステムを保全することに汲々としていますが、鎌倉武士このかた日本人の行動規律は「御恩に奉公」だということを忘れてはなりません。「御恩」として当然のことをしてくれない権力者に「奉公(納税)」は無用だということです。

Wednesday, October 24, 2007

Gettysburg


来月まで家族が戻ってこないので、自宅で無聊を慰めるためにこんな映画をまた眺めています。

Gettysburg」(1993年作品)。

前回登場のTed Turner氏がファイナンスした映画です。

1975年のピューリッアー賞を受賞したMichael Shaaraの歴史小説の映画化。題材はいうまでも無く、アメリカ南北戦争の「関ヶ原」。1863年7月1日から3日までの3日間にわたってペンシルヴァニア州ゲティスバーグ周辺で行われた戦い。

監督のロナルド・マックスウェルは小説を一読して感動し、すぐさま映画化を目指したものの、15年間もあちこちの映画会社に断られ続けていたところに、Turnerさんが救いの手を差し伸べたのだとか。

もともと南部(ジョージア州)出身のTurner氏にとって、南北戦争というのは特別な意味を持っているらしい。

ちなみにTurner氏、映画の最後、ピケット将軍指揮下のヴァージニア師団の突撃シーンに登場します。しかもその役が「パットン大佐」。あの第二次世界大戦のパットン将軍のご先祖様。銃弾飛び交う中、銃剣きらめかせた南部兵士の隊列の前にたち、

「Let's Go, Boys!」

と叫んだとたんに弾に当たって死んでしまう。

エグゼキュティブ・プロデューサーなのに、こんなんでいいんかい?

以前も取り上げましたが、南北戦争というのは現在のアメリカのありようの基礎になっている歴史の1ページですので、もっと映画の題材として取り上げられてもいいはず。しかしその重要性のために、かえって政治議論の標的になってしまうということもあり、ハリウッド映画業界ではタブー視されているのだとか。

偉大なる例外は「風とともに去りぬ」ですね。

以前ご紹介のゴア・ヴィダルさんに言わせると、南北戦争とはアメリカにおける「イリアッド」なのだとか。


映画作品としては、主だったキャラクターを演じる役者さんたちが、それぞれ気合の入った演技を見せてくれるのがおいしいところ。特にメイン州第20連隊指揮官のジョシュア・チェンバレン大佐を演じるジェフ・ダニエルズと、リー将軍を演じるマーティン・シーンが出色。リー将軍の右腕、ジェームズ・ロングストリート将軍を演じるトム・べレンジャーなんて、これがあの「メジャー・リーグ」で、セガレのほうのチャーリー・シーンとじゃれていた役者と同一人物とはとても思えません。(まぁ、メイクでつけている途方も無いサイズのヒゲのせいもありますが。)

それを言えば、ジェフ・ダニエルズだって実写版「101匹ワンちゃん大行進」の役者と同じ人には見えません。

最後の突撃を前に南部の兵士たちがマーティン・シーン/リー将軍を取り囲み「リー!リー!リー!」と意気を上げるシーンは実は偶然の産物だったという話。エキストラとして大挙して参加していた南北戦争コスプレ愛好家たちが、突然現れたマーティン・シーンを観て大興奮。彼を取り囲んで「マーティン!マーティン!マーティン!」とやり始めてしまったのをスタッフが「どっきりカメラ」よろしく撮影していたらしい。だから良く観ると兵士たちの口の動きは「リー」ではなく「マーティン」といっているのが分かる...とか。自宅でDVD観ながら確認してみましたが、どうもはっきりそれとは分かりませなんだ。

印象に残ったこと。

DVD特典のスタッフによるコメンタリー付ヴァージョンを眺めていたら、リサーチャーの人の、

「ピケット将軍の正面突撃は成功していたかもしれない。」

という一言が頭の片隅に残った。

どうやら正面突撃の前に行われた南部砲兵隊による一斉射撃の照準精度がもっと高ければ、勝負は分からなかった、という話。

結局、南部の技術・テクノロジー面でのお粗末さが勝敗を分けたということか。

なんか吉田満氏の「戦艦大和ノ最期」にも通じるような教訓ですな。

Tuesday, October 23, 2007

Ted Turner

CNNの創設者、Ted Turner氏。

一度会ってみたい人です。




こちらは友人のSPG君のためのクリップ。ターナー氏とカール・セーガンのインタビュー。



Thursday, October 18, 2007

A Season Too Far I (ラグビーまだやってます)

自分ではあまり気がついていなかったのですが、私はどうもアマノジャクらしいです。

家族の「お出かけ」に出発するまでは一番気乗りせず、腰が重かったりしますが、目的地に着くと一番はしゃいでいたりします。

かれこれ20年近くなるラグビーとのお付き合いにしても、この例外で無く、私はつい最近まで、

「オレ、ラグビーが好きだ!」

と口にして言うことには、憚りがありました。私の心の中ではあくまでも、

「いや~ほかにやりたいスポーツも無いし...」

というスタンスだったのです。

そんなわけで、昨シーズンの最終試合の後、夏のオフ・シーズンをニューヨークで過ごし、ヨガをちょっとかじった程度でなんもしていなかった私。口では妻に、

「いやぁ...オレももうラグビー引退だね...ワハハ...今度はゴルフだ...」

などといっていたのですが、香港に「帰港」した9月21日金曜日の翌日、22日土曜日にはもうラグビーしてました。

しかもまた2部リーグ...37歳のオジサンとしてはリーグのレベル落としたかったんだけど...。

9月22日

対HKCC(アバディーン)戦
ルース・プロップでスタートするも前半30分でリタイア。暑い...苦しい...ナサケネェ...
試合も大敗。

9月29日
対Valley戦
前半開始直後に立て続けにトライを決められ、「コリャ大敗パターンか...」と思ったら、持ち直し、なんと試合終了直前に逆転トライを決めて勝利。個人的には前週に比べてがんばったが、最後5分のところで「こむら返り」。リタイア...。ナサケネェ...

10月6日
対Dragons戦
昨シーズンの私の古巣チームが1部リーグからリーグを落としてきた。
同じクラブの2軍チーム。セオリーでは3軍チームである我々よりも強いはず。それでも何とか踏ん張り、接戦。惜敗。個人的にもやっとフル出場でチームに貢献できた。ヤレヤレ...。

そんなわけで、今シーズンもがんばります。目標は無故障。

どうやら私はラグビーが好きなようです。

Thursday, October 04, 2007

Boom Town

香港の景気がいい話をしたが、どうやら本当に景気がいいらしい。

ラグビーの練習の後、ヘッドハンターの人と話していたら、ニューヨークから香港での就職を希望する人たちの履歴書がわんさか来ているらしい。

ついにアジアの時代の到来か。

もっとも同じラグビーつながりの香港人の友人と景気の話しをしたら、

「早く次のクラッシュが来ないかな~...今の様子じゃ投資できないよ...。」

などと物騒な、でもみんな考えていることを大きな声でしゃべっていた。

おりしも香港市場がコーポレート・ガバナンスでアジアナンバー1に輝いたらしい。順位は香港、シンガポール、インド、台湾...そして5位にやっと日本。

インドと台湾に負けてんのかよ...トホホ...。

しかも圏外ながら中国が「よくがんばりました」評価なのに、日本の評価はネガティブ。

やはりトンカツ・ソースのせいか...。

Wednesday, October 03, 2007

Duke's Lesson

もうかなり前の話になってしまうが、Economist誌にデューク大学ラクロス・チームのレイプ事件顛末の反省記事が載っていた。

レイプ事件というのは、ラクロス・チームの大学生選手たちが乱痴気パーティーでストリッパーを呼んだところ、そのストリッパーが後日選手たちにレイプされたと訴えて、選手たちが刑事裁判にかけられたのだが、ストリッパーの女性の証言がじつはいい加減だったことがばれて、検察側の主張がデタラメだったことが明らかになった事件のことです。

どうやら同じパーティーで「お仕事」していたほかのストリッパー女史が、レイプなどなかったことを証言していたのに、「被害者」の女性が黒人であり、まぁ大学生スポーツ選手の乱痴気パーティーなどまちがっても褒められたことではないこともて手伝って、功名をあせる検事が無理失理裁判を推し進めてしまったらしい。

また事件に感情的に反応した大学側や、学生団体、そしてメディアもこぞってラクロス・チームを批判した。

Economistも同じく選手側を批判した記事を掲載したらしい(未確認)。

結果...冤罪。

しかし訴えられた側からしてみれば、

「どうもすいませんでした」

ではすまない話だろう。

同志社大ラグビー部の事件はどうなっちゃったんだろう。

ちなみに沖縄の米海兵隊兵士がレイプ事件を起こしても、沖縄県警は米軍兵士を逮捕できない。日米安保に基づく日米協定の下、在日米軍兵士には治外法権が認められている。米軍側に言わせれば、日本の警察の捜査基準が人権保護の面で国際基準に達していないからだそうだ。

明治の先賢たちの血と汗と涙の努力によって覆した不平等条約が、敗戦によって再び押し付けられていることを自覚している日本人はどれくらいいるのだろうか。そしてそうした非難に対してなんら対応しない日本の警察権力は、その怠慢が国益と国の体面を損じているということに気がついていないのだろうか。

Tuesday, October 02, 2007

One If By Land, Two If By Sea

One If By Land, Two If By Sea

17 Barrow Street
New York, NY 10014
212-228 0822

http://www.oneiffbyland.com/

ニューヨークのグリニッジ・ヴィレッジでロマンチックなディナー...といったらこのレストランらしい。

6アヴェニューあたりの喧騒から離れたわき道にあるレストランの建物は、18世紀末~19世紀初頭の馬小屋だったらしい。しかも私がゴア・ヴィダルの小説を読んで以来ファンになったAaron Burrゆかりの建物だとか。レストランにもBurrと彼が決闘で殺した政敵のAlexander Hamiltonの肖像が飾ってあった。

回転率向上のためと思われるが、予約は6時か9時のどちらにしますか、と聞かれたのには興ざめ。しかし、かなり予約の時間に遅れてしまった私たち夫婦にも、いかにも「ゲイ」といった感じのウェイター氏は優しかった。

料理はなかなかいけてる。クラシック・アメリカンとでもいうのだろうか。たっぷりのスモークサーモンのスターターにここの名物らしいパイ皮で包まれたビーフ・ウェリントン。ボリュームはかなりあるのでお腹をすかしていくことが肝要でしょう。あのままデザートまで食べてしまったのは無謀であった。

ソムリエに進められたカリフォルニア・ソノマ産のピノも美味。

初めはお隣さんが、「結婚記念日にニューヨークに来ました」みたいな老夫婦で微笑ましかったのだが、第二クールで登場したのがいかにも「不倫しています」という感じのおじさんとコムスメで妻と一緒にズッコケてしまった。しかもこの不倫おじさん、自信が無いのか、余裕が無いのか、浮気するのが初めてなのか、妙に舞いあがってしまっていて痛々しかった。

「これ、プレゼント...あ、でももし気に入らなかったら、交換してくれるって店の人が言っていた...どう?気に入ってくれた?もしいやだったら交換できるからね...ね?...」

などと延々と一人で喋りまくっている。

コムスメも...まぁなんというか、最近話題のエリカ様風で...笑わさせていただきました。

ありゃいい反面教師だったな。

レストランの名前が妙ですが、これは独立戦争時にボストン駐留英軍の動向を知らせに走ったPaul Revereの活躍に取材した、ロングフェローの詩からとったものです。ちょっと長いですが、以下に転載。

Paul Revere's Ride
Henry Wadsworth Longfellow

Listen my children and you shall hear
Of the midnight ride of Paul Revere,
On the eighteenth of April, in Seventy-five;
Hardly a man is now alive
Who remembers that famous day and year.
He said to his friend, "If the British march
By land or sea from the town to-night,
Hang a lantern aloft in the belfry arch
Of the North Church tower as a signal light,--
One if by land, and two if by sea;
And I on the opposite shore will be,
Ready to ride and spread the alarm
Through every Middlesex village and farm,
For the country folk to be up and to arm."

Then he said "Good-night!" and with muffled oar
Silently rowed to the Charlestown shore,
Just as the moon rose over the bay,
Where swinging wide at her moorings lay
The Somerset, British man-of-war;
A phantom ship, with each mast and spar
Across the moon like a prison bar,
And a huge black hulk, that was magnified
By its own reflection in the tide.

Meanwhile, his friend through alley and street
Wanders and watches, with eager ears,
Till in the silence around him he hears
The muster of men at the barrack door,
The sound of arms, and the tramp of feet,
And the measured tread of the grenadiers,
Marching down to their boats on the shore.

Then he climbed the tower of the Old North Church,
By the wooden stairs, with stealthy tread,
To the belfry chamber overhead,
And startled the pigeons from their perch
On the sombre rafters, that round him made
Masses and moving shapes of shade,--
By the trembling ladder, steep and tall,
To the highest window in the wall,
Where he paused to listen and look down
A moment on the roofs of the town
And the moonlight flowing over all.

Beneath, in the churchyard, lay the dead,
In their night encampment on the hill,
Wrapped in silence so deep and still
That he could hear, like a sentinel's tread,
The watchful night-wind, as it went
Creeping along from tent to tent,
And seeming to whisper, "All is well!"
A moment only he feels the spell
Of the place and the hour, and the secret dread
Of the lonely belfry and the dead;
For suddenly all his thoughts are bent
On a shadowy something far away,
Where the river widens to meet the bay,--
A line of black that bends and floats
On the rising tide like a bridge of boats.

Meanwhile, impatient to mount and ride,
Booted and spurred, with a heavy stride
On the opposite shore walked Paul Revere.
Now he patted his horse's side,
Now he gazed at the landscape far and near,
Then, impetuous, stamped the earth,
And turned and tightened his saddle girth;
But mostly he watched with eager search
The belfry tower of the Old North Church,
As it rose above the graves on the hill,
Lonely and spectral and sombre and still.
And lo! as he looks, on the belfry's height
A glimmer, and then a gleam of light!
He springs to the saddle, the bridle he turns,
But lingers and gazes, till full on his sight
A second lamp in the belfry burns.

A hurry of hoofs in a village street,
A shape in the moonlight, a bulk in the dark,
And beneath, from the pebbles, in passing, a spark
Struck out by a steed flying fearless and fleet;
That was all! And yet, through the gloom and the light,
The fate of a nation was riding that night;
And the spark struck out by that steed, in his flight,
Kindled the land into flame with its heat.
He has left the village and mounted the steep,
And beneath him, tranquil and broad and deep,
Is the Mystic, meeting the ocean tides;
And under the alders that skirt its edge,
Now soft on the sand, now loud on the ledge,
Is heard the tramp of his steed as he rides.

It was twelve by the village clock
When he crossed the bridge into Medford town.
He heard the crowing of the cock,
And the barking of the farmer's dog,
And felt the damp of the river fog,
That rises after the sun goes down.

It was one by the village clock,
When he galloped into Lexington.
He saw the gilded weathercock
Swim in the moonlight as he passed,
And the meeting-house windows, black and bare,
Gaze at him with a spectral glare,
As if they already stood aghast
At the bloody work they would look upon.

It was two by the village clock,
When he came to the bridge in Concord town.
He heard the bleating of the flock,
And the twitter of birds among the trees,
And felt the breath of the morning breeze
Blowing over the meadow brown.
And one was safe and asleep in his bed
Who at the bridge would be first to fall,
Who that day would be lying dead,
Pierced by a British musket ball.

You know the rest. In the books you have read
How the British Regulars fired and fled,---
How the farmers gave them ball for ball,
From behind each fence and farmyard wall,
Chasing the redcoats down the lane,
Then crossing the fields to emerge again
Under the trees at the turn of the road,
And only pausing to fire and load.

So through the night rode Paul Revere;
And so through the night went his cry of alarm
To every Middlesex village and farm,---
A cry of defiance, and not of fear,
A voice in the darkness, a knock at the door,
And a word that shall echo for evermore!
For, borne on the night-wind of the Past,
Through all our history, to the last,
In the hour of darkness and peril and need,
The people will waken and listen to hear
The hurrying hoof-beats of that steed,
And the midnight message of Paul Revere.

ロングフェローのこの詩のおかげで有名になったPaul Revereさん。ところがRevereさんと同じくゲリラ活動をして英軍の動きを知らせていた相棒のWilliam Dawesさんの名前を知る人はほとんどいない。ということでそれを皮肉った詩が以下の通り。

The Midnight Ride of William Dawes
Helen F. Moore


I am a wandering, bitter shade,
Never of me was a hero made;
Poets have never sung my praise,
Nobody crowned my brow with bays;
And if you ask me the fatal cause,
I answer only, "My name was Dawes"

'Tis all very well for the children to hear
Of the midnight ride of Paul Revere;
But why should my name be quite forgot,
Who rode as boldly and well, God wot?
Why should I ask? The reason is clear --
My name was Dawes and his Revere.

When the lights from the old North Church flashed out,
Paul Revere was waiting about,
But I was already on my way.
The shadows of night fell cold and gray
As I rode, with never a break or a pause;
But what was the use, when my name was Dawes!

History rings with his silvery name;
Closed to me are the portals of fame.
Had he been Dawes and I Revere,
No one had heard of him, I fear.
No one has heard of me because
He was Revere and I was Dawes.

Friday, September 28, 2007

Kennst Du Das Land (君よ知るや南の国)

昔の日本人の名前に対する感覚というのはどうもつかみにくい。

「ナントカの守」とか「ナントカの介」なんてのはれっきとした官名だが、中央の朝廷・幕府権威が衰亡した室町中期・後期はみんな勝手にやりたい放題。どうもみんな好き勝手に語感がきにいったやつを自分で選んでいたみたいだ。いわゆる「受領名」というやつ。

織田信長は初期、有名な舅の美濃の斎藤道三との会見のとき、

「カズサノスケ(上総介)でござる」

と名乗ったらしいが、これは自称なんだろうか。初めて会う人に、

「千葉県知事です」

といってしまう感覚がすごい。まぁ当時の人にとっては「かざり」にすぎないのだから、別にどうともないのだろうが、明治のご一新このかたの中央集権国家に生まれた人間の感覚からはかなりずれている。

もっとも信長の場合はお父さんの信秀が当時としては奇特な勤王家で、朝廷に献金などしていたみたいだから、万年金欠状態にあった皇室から正式に(形だけだけど)任官していたのかもしれない。たしか上総の国は律令制度の下では「上国」で「守」は親王の専権職だから、信秀のオヤジが京のあばら屋住まいの食い詰め王子に、

「セガレの任官、これでひとつよしなに...」

なんて「水戸黄門」に出てくる悪徳商人みたいなことをいていたのかもしれない。

信長は後に天皇に上奏して部下の明智光秀や羽柴秀吉に日向守、筑前守を授かっているから、ここら辺の任官制度や朝廷交渉ということに関して早い時期から学習経験があったという推察もありだろう。

もっとも武家の棟梁が部下にかわって朝廷に任官を上奏し(そして個人の個別の申請を排除する)、ひいては任官業務(権威授与)を朝廷に代わり代行する、という手口は鎌倉殿こと源頼朝以来の武家政権やりかただけど。(はい、そこ、源九郎くん、ちゃんと聞いているのかね?!)

どの官名がいいのか...というか、どの官名にどんなイメージがあるのか(あったのか)というのもわからん。

ま、相模守なんていったら鎌倉北条家のイメージだろうし(北条時宗は相模太郎だもんね)、三河守は足利家のイメージ。秋田城の介なんていうと鎌倉時代の安達泰盛みたいな「幕府政権の懐刀」というイメ−ジなんじゃなかろうか。(信長の長子、信忠は城の介だった。)保元の乱の後、平清盛が讃岐守に任官したことを嫉妬した源義朝が、続く平治の乱の短命クーデター政権の下で讃岐守に任官しているところをみると、讃岐の国はよいところだったのだろう。うどんと金比羅様と溜め池by弘法大師...ですか...ま、京からも近いしね。

なんでこんなことを考え始めたのかというと、池波先生の「真田太平記」を読んでいて、

真田昌幸が安房守...セガレの真田源三郎信幸が伊豆守...昌幸の叔父、矢沢頼綱が薩摩守(頼綱の息子の三十郎頼康は但馬守)...なんかみんなトロピカルな国だな〜。

と気がついたから。

もしかしたら上州の山奥、雪に閉ざされた岩櫃城で家族一同、囲炉裏を囲みながら...

昌幸(丹波哲郎のイメージで):「ムフフ...、わしゃ『安房』じゃ。『安房』はいいぞぉ。房総半島の先っちょで、沖では黒潮がぶちあたるあたり、美味い海の幸が喰い放題らしい...。どうじゃ、源三郎...おぬしはどこがいい?」

信幸:「おそれながら、拙者は『伊豆」がよろしいかと...。お父上のおっしゃる海の幸はいわずもがな、別所の湯にも勝るとも劣らぬ、出で湯の地と聞き及んでおりますれば...。」

昌幸:「ムゥ...良いところに目をつけたの...。」

頼綱(加藤嘉のイメージで):「フォッ、フォッ、フォッ...おぬしらまだまだ甘いのぉ...どうせ南の国に参るのであれば、いっそこの日の本の国のいちばん南。『薩摩』じゃよ。芋焼酎にさつま揚げ。桜島の灰のおかげでおのれの白髪も目立たぬわい。」

昌幸:「さすがは叔父上...スケールが違いますの。して三十郎は。」

頼康:「...但馬...で...お願いします。」

昌幸:「それ、どこじゃ?」

信幸:「丹波のむこうですな。」

昌幸:「黒豆の先か...地味なヤツじゃ...。おい、源二郎(幸村)、おまえは?」

幸村:「...」

なんて「農協ツアー」のはしりみたいな会話をしていた...わけないか。

Thursday, September 27, 2007

Future of Civilization

ニューヨーク 滞在中にセガレが私のマシーン(Dell Inspiron 6000)をぶっ壊してしまい、おかげでポッドキャストの更新ができない状態だったのですが、帰港直前にアップルのMacBookProを購入。会社のコーポレート割引が利いたのでラッキー。

そこで久しぶりにポッドキャストを更新し、帰りの飛行機のなかでのんべんだらりと聞いてみたら、Discovery Channelのこのビデオ・ポッドキャストで目が覚めちゃいました。



加来道雄さん...すごい...

Wednesday, September 26, 2007

A Stranger's Homecoming

てなわけで、香港に帰ってまいりました。「帰港」です。

第一印象...

なんかすごく景気がいい。

周りの人たちの「鼻息」が荒い。

いけいけドンドン。

帰りの飛行機(NY-香港直行...17時間無制限勝負...ツラカッタ...)で通路を挟んだ隣の客が読んでいた香港の新聞に、

「大四喜」

という見出しがあったので、

(なんじゃらホイ...?「大三元」なら知っているけれど...?)

失礼を承知で漢字の羅列を眺めていたら、どうやら香港証券取引所で四つの新記録が出たらしい。つまり、

1.ハンセン(恒生)指数最高値記録

2.H株指数最高値記録

3.出来高最多記録

4.時価総額最高値記録

う~む...サブプライム問題でピリピリしてたニューヨークとはえらい違いじゃ。ニューヨークの金融マンたち...今年のボーナスは期待できそうも無いからね。

かたや中国もインフレ問題が顕在化してきている。

北京政府が打つ次の一手、次の次の一手、そのまた次の一手...で株価も乱高下しそうだ。

どうなるんだろう...。

...で、日本は...フ~ン...福田さんね...ま、どうでもいいや。

勝海舟じゃないが

「どうせなるようにしかならねぇよ。」

でしょう。

Monday, September 17, 2007

Celebrity Watching

ニューヨークで見かけた有名人...

真田広之

ある朝、通勤の途中、パーク・アヴェニューと56~58番街のどこかの角で、すれ違い。

「なんか、やたら色黒な東洋人がこんな暑い日にビシッとダーク・スーツでキメてるな...」

と、思いよく見たら、たそがれ清兵衛だった。

有名人オーラ度:60%


中村勘三郎、勘太郎、七之助

平成中村座の公演でニューヨーク入りしていた中村屋ご一行。

土曜日の休みに用事があってオフィスへ足を向けたら、オフィスが入っているビルの近くの日本料理屋の前ですれ違い。

遠くからでも、

「あ、背の低いオジサンが歩いてくる...。あ、勘三郎だ。」

と、わかりました。

「中村屋!」

とか

「平助!」(大河ドラマ「新選組!」で勘太郎が藤堂平助をやっていたので。)

なんて言ってみようと思いましたが、ご家族団欒のひと時だったようなので、遠慮しました。(その後、妻とリンカーンセンターへ観劇しにいきました。)

有名人オーラ度:80%


Christy Turlington

サイズが小さすぎたセガレの洋服を返品・交換しに妻がTribecaまで私を引っ張ってきたので、妻とセガレが洋服店に行っている間、自転車屋さんで時間をつぶしていたら、セガレぐらいの年の女の子とお手伝いさん風の黒人女性をつれた女性が子供の補助輪付チャリを引っぱりながらやってきた。

「お手伝いさんたぁ...金持ちなんだろうなぁ...」

と思って眺めていたら、サングラスをはずした顔のどこかに見覚えが...。

あとで妻に、

「ほら...あの...元スーパー・モデルで...ヨガやる...」

などと、もどかしさに5分ほど耐え抜いた後に、やっと名前が出てきた。

それにしても...まったく見事なまでにオーラなし。確かにスタイルが良くて、顔がメチャクチャ小っちゃい(オレの顔の二分の一?)けれど、あれだけのスタイルの人はそう珍しくはない。

やはりスーパー・モデルなんてぇのも、マーケットの需要という外因と、「自分ブランド」の確立と地道な仕事に対するビジネスの評価という個人の努力に尽きるんだろうな...と個人的に納得。

Sunday, September 16, 2007

InSPA World

日本人に欠かせないもの...それはお風呂でしょう。海外生活がそろそろ人生の50%を超えてきた私でも、お風呂が無い生活は...不可能ではありませんが、さみしいです。

シャワーだけでは「汚れ」は流せますが、「疲れ」がとれないのです。

そんなわけで、日本に帰国の際はほとんど必ず東京駅地下の東京温泉に行くのが私のお約束です。

長崎の隠れキリシタンたちが伝えてきた「和訳聖書」では、オリジナル通りマリアは馬小屋でイエスを産むのですが、その後すぐに宿屋のオヤジが出てきて聖家族のためにお風呂を焚く話になっているとか。

やはり日本人にとって風呂は欠かせないのでしょう。

香港では「まっとう」なサウナから、料金体系が表・裏ある「怪しい」風呂屋など、百花繚乱でしたが、ここニューヨークではどうもホテル付属のおしゃれな「SPA」しか見当たりませんでした。

しかし、ついに見つけました。

韓国系資本がオープンさせた、その名も「InSPA World」。

マンハッタン市内から地下鉄で30分ほどのFlushing。そこからまた送迎バスで約20分(しかも送迎バスの発着場所が不案内)という、距離的な不便さがイマイチですが、お風呂欠乏症に悩まされていた私にはまさに天の恵み。

4階建ての建物の中には男湯、女湯、ラウンジ、屋外プール、レストランとまさに健康ランドなみの充実ぶり。

早速家族を引き連れ、いってまいりましたが、セガレは屋外プールで大ハシャギ。私はサンスケ君に全身の垢を落としてもらいリラックス。妻も最上階の韓国料理レストランに太鼓判というわけで、家族一同大満足。

客層はコリアの皆さんが70%、日本人が20%、アジア人以外が10%といった感じでしょうか。週末は子供連れが多く(私たちもでしたが)、うるさいかもしれませんが、週日の日中は静かなのでねらい目です。

このInSPA Worldのオープンは当地日本人の間でもニュースだったようで、いろいろな方がブログで取り上げられています。ご参考までにリンクをこちらに  

Saturday, September 15, 2007

Yoga Debut


恥ずかしながら、ヨガ、初体験してしまいました。

数ヶ月前ほどから妻がハマリまくり、ほとんど毎日のように近所のヨガ・スタジオ通い。おかげで体の調子は絶好調なのだとか。

そんなわけで、レッスンのタダ券があるというので私も妻のヨガ・マットを小脇に抱え、いそいそとスタジオへ足を運んだのでした。

すっかりハードコアになってしまった妻は、暖房をきかせた中でやる「ホット・ヨガ」(気温が高いので筋肉がより伸びやすいらしい)をすすめていましたが、ただでさえ暑苦しい私が、そんな暑い中で屈伸運動したらそれこそ捩じれたサラミかハムみたいになっちまいますので、敬して遠ざけさせていただきました。

結論...けっこう気持ちいいです。

もともとレスリング・相撲などの格闘技系をやっていたので、体幹筋肉を鍛えること(四股ですね)や、ストレッチングになじみがありましたので、「息を吐くのと同時により筋肉を伸ばす」というヨガの基本もすんなりと入っていけました。

もっとも最近の運動不足で以前は太くてもけっこう柔らかかった体がコチコチになっていたのはちょっとショックでしたが...。鏡に映るオノレの姿はまるで二つ折りになったミシュラン・マン...。

続けてもいいかな。

Wednesday, September 12, 2007

Salad Bowl

My son started kindergarten at a local pubic school last week ("public" in American sense of the word, to be sure).

We knew it would only be for several weeks till my stint in New York ends. Nevertheless, we thought he would benefit from socializing with other kids and being in an educational set out, as opposed to just another play-group or day care centre.

Besides, my wife needs some time free from child duty during the day.

On his first day, I took a day off from work and three of us walked to the school together, which is only a couple of blocks away from our flat.  (How convenient!  My wife cannot believe her luck.)

It was very chaotic with hordes of children, some crying, and their anxious parents, of whom I was one.

Later, my wife pointed out,

"Have you realised? We didn't see any black children there."

At first I thought,

"That cannot be the case..."

Then I recalled the scene and... So true... and how come? It is a public school, after all.

It turns out that biggest minority group in that school is probably Japanese.

It must surely be a joke!

"There are no white America. No black America. But the United States of America."

Hmmm... I am not so sure, Mr. Obama.  An inspirational aspiration, to be sure, but...

Monday, September 10, 2007

Closed Langauage / Open Language


BBCのこんなサイトがあります。

英語の歴史。

なかなか面白いです。

ミュージカル・映画の「My Fair Lady」(といいますか、バーナード・ショーの戯曲「ピグマリオン」)でヒギンズ教授が言うように、英語と言う言葉は誰かがそれをしゃべれば、他の誰かがその人を憎むというように、あまりに多くの人たちによって、あまりにいろいろな話され方をしています。

こうした汎用性が現在の英語の世界言語としての地位を確固たるものにしている所以でしょう。いうなればOSソフトウェアのオープンソースみたいなもんですな。

かたや日本語は...難しいよね。

日本人じゃない人がいくら流暢に日本語しゃべっても、それは外国人の日本語に聞こえてしまう。

いわば英語が「開かれた言語」であるのに比べ、日本語は「閉じた言語」であるような気がします。

妻に言わせると広東語も「閉じた言語」なのだそうだ。

以前は世界中どこの中華街にいってもしゃべられている言葉は広東語だったが今ではそれが普通話に取って代わられている。

広東語がしゃべられていた理由は、世界に広がった華人ネットワークの主流が香港経由の広東人だったからでしょう。

また香港の経済力を背景にして、台湾人のテレサ・テンも北京出身のフェイ・ウォンも広東語の歌で香港デビューしていたわけだ。

しかし、妻によると広東語には独特の言い回しや、感嘆詞の使い方があり、そうした細部からネイティブ広東人なのか、ヨソモノなのかが簡単にわかってしまうらしい。

そうした意味では広東語も日本語同様、排他的な言語なのかもしれない。

もちろんいまでは広東語の本丸、香港でさえ普通話がはばを利かせています。

接客業はもちろんのこと、ヤムチャしに茶楼にいっても給仕のおばちゃんまで当たり前のように普通話を話しますし、仕事の採用で目を通す香港人の候補者(ホワイトカラー)の履歴書にも「普通話可」が当然です。

これにはもちろん中国の経済力の躍進が背景にあるのですが、それと同時に普通話が「開かれた言語」であることもその理由のようです。

中国各地に無数とある方言・中国語の亜種をしゃべる人たちにとって、普通話とはみんなが等しく「学んだ言葉」であり、そこには出身地による排他性などが比較的に介在しないらしいのです。(もちろん北京なまりの普通話だとか、上海なまりの普通話、四川なまりの普通話という違いはあるらしいですが。)

オレも早くしゃべれるようになりたい...。

Sunday, September 09, 2007

My Sporting Jinx


My son has become a Yankees fan. He does not understand anything about baseball but cheers "Hip, Hip... Jorge!" and "Let's Go Yankees!" every time he sees that "NY" sign.

Amazing...

Steinbrenner and Cashman can be proud of the work they have done in my household.

As for myself, about a month ago I realised that Seattle Mariners had climbed to the top of the AL Wild Card race and I decided to support that team. After all, I might as well support Ichiro's team.

Since then, the Mariners hit the brake pedal in a big way, losing most of their games, including a 9-game losing streak. To top it all, I had to witness their meltdown against the Yankees on TV whilst my son went about the flat cheering "Let's Go Yankees!"

Call me crazy, but I think I have a knack for jinxing whichever sports team that I support.

And now, the rugby world cup has started in France.

And I am supporting Japan.

It was with a heavy heart that I made my way to Baker Street Pub here in New York on Saturday morning to see Japan play Australia in their first pool game. I couldn't stay sober and downed 3 pints of Guinness in the morning as my fellow countrymen (and several naturalised Pacific Islanders) went down 91 to 3. The fourth pint was on the house, thanks to a lovely Irish girl behind the bar.

As I walked back from the pub, my Guinness soaked brain was slowly being cooked by the bright daylight of New York's late-summer sunshine and the poem I had learned whilst I was in England started to swirl around in my ears...

There's a breathless hush in the Close to-night --
Ten to make and the match to win --
A bumping pitch and a blinding light,
An hour to play and the last man in.
And it's not for the sake of a ribboned coat,
Or the selfish hope of a season's fame,
But his Captain's hand on his shoulder smote
"Play up! play up! and play the game!"

The sand of the desert is sodden red, --
Red with the wreck of a square that broke; --
The Gatling's jammed and the colonel dead,
And the regiment blind with dust and smoke.
The river of death has brimmed his banks,
And England's far, and Honour a name,
But the voice of schoolboy rallies the ranks,
"Play up! play up! and play the game!"

This is the word that year by year
While in her place the School is set
Every one of her sons must hear,
And none that hears it dare forget.
This they all with a joyful mind
Bear through life like a torch in flame,
And falling fling to the host behind --
"Play up! play up! and play the game!"

(Vitai Lampada by Sir Henry Newbolt, just in case you are interested...)

You can tell that Waterloo may have been won on the playing fields of Eton but the myth was buried in the trenches of France and the era of professional sports has finally put a stake through its heart.

Saturday, September 08, 2007

George MacDonald Fraser

うちのセガレはなぜかインディアン(ネイティブ・アメリカン)を「エンブレム」と呼びます。

なぜだ?

そしてなぜか、

「インディアンは悪者で、カウボーイは正義の味方だ。」

と、どこぞで覚えてきました。

恐るべし、アメリカのサマーキャンプ教育。

とはいえ、セガレの思い違いを更正しようにも、オレ様もあまりアメリカン・インディアンのこと知らんぞ...しかし分厚い人類学の学術書を読むのも面倒だし...。

というわけで、George MacDonald FraserFlashmanシリーズ中の「Flashman and the Redskins」を買ってきて読みました。

このFlashmanシリーズは著者のFraser氏が、偶然骨董屋で見つけた主人公、ハリー・フラッシュマンの回顧録を編集・出版しているというフィクションの下に構成されています。

「フラッシュマン」というのは実は「トム・ブラウンの学校生活」という19世紀イギリスのパブリック・スクール(ラグビー校)を舞台にした物語で、主人公のトムをいじめる不良上級生で、最後には飲酒を理由に放校されるという役柄で登場するのですが、著者のFraserさんはこれを本歌取りして、「その後のフラッシュマン」の活躍という形で作品を書いています。

いろいろその向き(イギリス文化、ヴィクトリア朝、などなど...)が好きな方には、ウンチクに富んだ背景があるのですが、ま、早い話、娯楽作品です。

フラッシュマンはいわゆるアンチ・ヒーローの典型で、ずるがしこく、臆病で、ずうずうしく、無類のオンナ好き。ラグビー校を退学になった後、騎兵連隊に入隊し、アフガニスタンクリミア戦争セポイの乱太平天国の乱、なんかに巻き込まれて大活躍をします。

ようするに大英帝国の揺籃期を背景にしつつ、Fraserさんのかなり細部にわたるリサーチを元にした大活劇といった趣きです。

今回読んだ「Flashman and the Redskins」は、カリフォルニアのゴールドラッシュの時代にニューオルリンズからサンフランシスコを目指す売春宿のご婦人方ご一行をエスコートする羽目になったフラッシュマンが米墨戦争直後のニューメキシコでアパッチ族に捕まり、命からがらに逃げ出す話と、その約25年後、リトルビッグホーンでのカスターの最後に立ち会う羽目になる話の二部構成になっています。

すらすらと一週間ほどで読んでしまいましたが、印象に残ったのは話の最後のほうのフラッシュマンのセリフ、

「お前が生まれた年、25年前、だからついこの間のことだ。オレはキット・カーソンと一緒にタオス(ニューメキシコ)からララミー(ワイオミング)まで旅したが、道一本なかったし、その間誰にも会わなかった。それが今じゃ毎日のように入植者がやってきて、どこもかしこも変わっちまった...お前が探しているような西部はもうすぐ無くなってしまう...。」

巻末のノートでFraserさんが書いていますが、長い人類の歴史の中において、アメリカの西部開拓というのは本当に「アッという間の出来事」だったのだそうだ。子供のころ幌馬車でやって来た入植者の子供が、晩年には西部劇映画を視ているような現象が起こったらしい。

こうした歴史のうねりの犠牲となったアメリカン・インディアン。

銃の乱射事件など、アメリカの暴力社会の悲劇を目にするたびに、その呪いを感じます。

とりあえずセガレには、

「いいインデイアンもわるいインディアンもいるし、いいカウボーイもわるいカウボーイもいるんだよ。本当にいけないのはみんなで一緒に仲良くできない人たちなんだよ。」

と言っていますが、理解できているんだろうか...?

Friday, September 07, 2007

Google Analytics

海音寺潮五郎さんつながりで、いつも拝見している、「塵壺」さんというブログがあるのですが、そこで取り上げられていたGoodle Analytics」を当ブログでも利用してみました。

いや、面白いです。

どこの誰がブログ見に来てくれているのかがわかります。

いちばんアクセスが多いのがニューヨークと東京から、そして香港、イギリスの順なのは当たり前なのですが、アメリカではオレゴン、ミネソタ、アイダホ、ルイジアナ、ユタなどなどの人がお出でになっています。多分、英語のタイトルが検索で引っかかって、いらっしゃったのでしょう。そういう方々のサイト滞在時間というのもわかるのですが、皆さん一分以内に「サヨナラ」されています。

そりゃそうだ。日本語読め無い人はトップの記事が日本語だったらすぐに、「ハイ、サイナラ」でしょうな。

そのほかにも、モロッコ、インド、クウェート、イスラエルなどの方々がダマサレテいるようです。

どうもすいません。

まぁ、しかし...恐るべし、Google

Tuesday, September 04, 2007

Books I Have Sold

私はこんな本を読んできた...ムハハハ」なんて言うインテリな方々がいらっしゃいますが、私はずばり

「私はこんな本を捨ててきた」

でいってみたいと思います。

高校生のころ、渡部昇一さんの「知的生活の方法」なんて読んだころは、

「将来は書斎いっぱいの本に囲まれて、パイプをくゆらしながら『知的生活』をおくるのだ...」

などと、今から思えばチョーこっぱずかしぃ~、赤面噴飯ものの考えがありましたが(まったく...「痴」的生活の間違いじゃねぇのか?)、東京からイギリスに引越し、イギリスから東京に戻り、東京から鎌倉へ移り、鎌倉から某カリブ海の島を経て香港へいたったころには、

「人生、身軽に限る」

とすっかり宗旨替え。

いったいぜんたい「書斎」だったはずの部屋が妻の趣味で「茶室」にかわり、家の中ではいたずらなセガレの手の届くところには何もおいておけない今の状態では「知的生活」など夢のまた夢。一読して自らの血肉にならない本、もしくは常に座右におきたいと思えるような本以外は、さっさと処分する方針に変えました。

もしまた読みたいと思えばまた買えばいいのだ。

そんなわけで、ニューヨークもあと2週間を切りましたので、アマゾン等で入手した本の整理・処分をするべく、ニューヨークにもあるBook Offまでいってきたわけです。

第一回の処分本は以下の通り。

三谷宏治

どっかで推薦されていたので買ってみましたが、いやぁ~つまらんかった。両方とも半分も読んでいません。私の頭脳が三谷さんを必要としていないのか、三谷さんの世界があまりに高尚で私がついていってないのか、どっちかわかりませんが、現在の時点の私にはまったくご縁のない本でした。

決断力
羽生善治

自分が伝えたい自分の考えをはっきりしたテーマとメッセージとして簡潔に書いている。物書きのプロでもないのに、ものすごく冴えた筆力だなと感心しました。やはり頭が良い人なのですね。


邱永漢さんのご推薦。とはいえ、邱さん自身は、この本の内容を推薦しているというよりは、「ものづくり」から「金で金をつくる」経済に変化していく日本、というご自身のものの見方の証左としてこの本を捉えているような気がしました。

岩崎さん、以前私が書いた

「無知蒙昧な愚民になり代わり...」

という典型的日本のエリートタイプであられるようです(元興銀マン...)。

個人的には岩崎さんが言っているような「大変化」がそうすぐに日本に訪れるとは思いません。

特に岩崎さんが力説する、KKRのような外国勢による「黒船」ショックは多分当分無いでしょう。

残念ながら。

ブルドッグソースごときで大騒ぎする日本のマーケットに国際資本は嫌気をさしているし、今の日本企業は世界的レベルでみてお買い得感ないもんね。

特に買収対象になりそうなダメな会社に限ってコストが高いし、買収した後のエグジット(出口)戦略の見通しが立たないケース多い。

買収後の経営ノウハウにしても、「経営のプロ」と呼ばれるような人材がマーケットに豊富にいないし(ユニクロの元社長がアイスクリーム屋やっている国ですからね...あぁもったいない...)。

世界中を浮遊する国際資本にしてみれば、面倒な日本でビジネスするよりは、もっと安く儲かりそうで戦略的に重要な中国や東南アジアにいった方がよっぽどお得。

(「国際資本」といってもその中には日本のお金がいったん国外にでたあとに戻ってきている場合も多いんだけど。)

日本のM&Aは日本の国内企業が、

「もうドラスティックにやらなきゃどうにもならん!」

てな具合になり、生き残りをかけて動き出すことにより始まると思う(というか現にそうなってきている)。

以前の「10・15年説」じゃないが、日本における本格的国際M&Aの大乱闘が始まるのは2014年前後じゃないかなと思っている。

単純にリップルウッドが新生銀行を再上場させたのが2004年だからなんだけど。

ま、そのころには団塊世代もリタイアしきって、自分たちの職(=既得権益)を守ることより、資産のより効率よい運用の方に興味を持ち始めるだろう。

それまでに極端な円安が進んで、国外からやってくる投資家には日本のものが何でも安くみえてしまう...というシナリオもありかな。

ついでに言えば、「死にそうな会社を買うより、死んだ会社を買ったほうが安い」ということもあります。

というわけで、いろいろ頭を刺激してくれる本でしたが、リピートには耐えないと思ったので、Book Offにひきとってもらいました。

キープしているのは陳舜臣さんの「中国の歴史 近・現代編」です。

Monday, September 03, 2007

Declining Empire Is The Best Place To Live

Just the other day, I was talking with a stranger in a bar about living in China and weighing the pros and cons about working and doing business there.

Needless to say, China is THE place now, arguably the most exciting country to do business in with a bucketful of opportunities (not to mention their corresponding risks).

It also goes without saying that living conditions there are atrocious, what is with air pollution, congestion, food safety and so on and so forth.

Let's just say that it ain't a place to raise your family, if you can avoid it.

Then it occurs to me...

A declining empire is the best place to live.

I mean who would want to live in Rome during its empire building era? You are subject to arduous military service as civic duty, dispatched off to some heathen land for more than a decade in the service of some megalomaniac aristocratic brats. I mean I am so glad that I can deal with the likes of Pompey or Caesar at the safe distance of 2000 odd years. At the end of it all, if you are lucky enough to survive the ordeal, you will be given a piece of land to labour on as a not-so-gentleman farmer. And all of this is the case provided you are fortunate enough to have been born as a Roman citizen. Heaven help you if you are a slave. "I am Spartacus!", indeed (my previous entry about the film here).

On the other hand, if you are living in Rome during its "decline" (as opposed to its "fall"), you have hit a jackpot. It's circus almost every other day at Colosseum and relaxing bath at the Caracalla's afterwards. Even if you are a bottom-feeding slave, the wealth and prosperity of the empire would trickle down to you in such a way that you may be able to hope for a funny thing happening on your way to the forum. In short, unless you are a fun-hating, life-denying Christian zealot about to be fed to a lion for entertainment at Colosseum, you can have a pretty good life.

On the same note, who would want to live in London in the 1850's. You would be having a cracking imperial adventure like Flashman, offering your precious life to vain imbeciles like Lord Cardigan or reckless empire builders like James Brooke. In London, you would be living through the Great Stink next to an open sewer called Thames River and in fear of cholera. You would be much better off in the early 20th century, living the life of Bertie Wooster (avoiding two world wars, of course).

Similarly, one should avoid living in America during such times as you need to circle your wagons to protect yourself from the native hostiles or die amongst thousands in order to settle some difference of opinion as to the federal government's constitutional powers to defend the union of states (not to mention an inconvenient issue regarding slavery).

The best time to live in America is, clearly and definitively, NOW.

Nowhere else on earth you would be provided day in day out with the top notch entertainment in the shapes of various professional sports, films and mindless TV shows and hordes of media channels to supply them through to you directly in your living room. Food is plenty (and also directly delivered to you at home) and your personal needs are attended to by every imaginable service provider (who would have thought that you need a personal shopping assistant). Fact, your material desire has been satisfied to saturation, you need a personal storage room on the edge of town to hold your possessions for you. Having more than you need is not luxury anymore. It is the norm.

A great thing about the empires is that they take time to be replaced by their successors. They do not die a sudden death, because by the time an empire becomes well established, the wealth of all the world around it is linked to the continuing prosperity of such empire.

Empires must decline first, and then fall.

I suppose the knack is in realising when the decline gets so steep that it becomes a fall.

I wonder if I live long enough to see the fall of America. As I do not want to be hit by such a fall in my old age, I must prepare myself well for it. And that probably means doing business with, but not in (if one can avoid it), China.

As for Japan, well, it has never been an empire but it sure has a long way to fall, if you ask me.

Sunday, September 02, 2007

Alt Heidelberg

(このエントリーは私の高校時代のドイツ語の先生、桝谷氏に捧げます。)

近所に「Heidelberg」というおいしそうなドイツ料理屋さんがあると教えてくれたのは、うまいものに目がないわりには鼻が利くわが家の山の神

すでにここ数ヶ月ほど、Second Avenueならびにある無愛想ながらもおいしいドイツ・デリ、Schaller & Weberにお世話になっており、かねてよりそのおとなりさんにあたるこのレストランが気になっていたそうだ。

そこで先日、家族で行ってきました。

潜入、Heidelberg...

なんか冷戦時代のスパイ物みたいだな...。

バー・エリアとレストラン・エリアに分かれた店内に入ったとたんに耳に流れ込んできたのはポルカの音色。

...ドイツだ...。

「何人ですか?」

と聞くウェイトレスのお嬢さんは、なんか恰幅のいい(ちょっと赤ら顔の)ブロンド娘。

...ドイツだ...。

しかもドイツ民族衣装風の白いブラウスとジャンパースカートのコンビネーション。

(しかもジャンパースカートの上半身部分がピッチピチ...)

...ドイツだ...。

(東洋人女性は自分をセクシーに見せようとしてジャンパースカートを着ないもんなぁ~...。)

他のウェイターも、その顔どうみてもメキシコ・プエルトリコ系だろ?というお兄ちゃんたちがレーダーホーゼン着てはりきっている。

う~ん...すごい。

やられた...。

こりゃドイツだ...。

それにしても本当のドイツ人はこういう「これでもか、これでもか」といった感じのコッテリまるごとドイツでっせ!という店作りに引かないのだろうか。

もし私が異国で日本料理屋に行ってBGMに琴の音色で「さくら、さくら」なんて流れてきたら、ちょっと食傷するが...どうなんだらう。

肝心の食べ物は、ドイツ料理屋に行くと決めたときから食べることにしていたアイスバイン。そして飲み物はピルスナーのビール。Warsteinerでいってみよう!

まずはビールでやられました。美味い!久しぶりにキレのあるビールを飲んだ。自分がアメリカに来てから、いかに不味いビールを飲んでいたのか思い知らされました。

次にアイスバイン。

...で、でかい!ゲンコツ四つほどの大きさの豚の脚関節が大きなお皿にドン。トロトロのコラーゲンがたっぷり。

付け合せはザウアークラウトとジャガイモのパンケーキにアップルソース。これがまた美味。ザウアークラウトが嫌いという妻も、

「これはオイシイ...」

セガレも黙ってパンケーキに喰らいつく。

...おいしい店に行くとなぜか無言になるわがファミリー。

しかもお値段おてごろ。

気取りもヒネリも無い。無骨ながら正直な「美味いもん」を食べさせるお店。

こりゃ掘り出しモンだねぇ~...と家族みんな大満足で家に帰ったのでした。

その後数日してからこんどは一人でバーに行ってきました。

ビールの味が忘れられず...。アハハ...。

バーのストゥールに腰掛け、一リットルの大ジョッキを頼んでグビグビやり始めたら、となりのオジイサンが、

「お若いの...よく飲むね...」

いやぁ~、好きなもんで...アハハ...といった具合に会話が始まった。

話を聞くと、オジイサンはピアノの修理工・調律師でジュリアード音楽院に出入りしているとか。

「オジイサン、もしかしてドイツ人?」

「ヤー、ヤー...」

しからば...と、ビールの助けを借り、高校以来、錆び付いたというもおろかなドイツ語を脳みその片隅から取りだして...

「汝ハ、ドイツノイズレヨリ来タルカ?」

「共産圏ナリ。ポーランド国境チカクノ町ナリ。」

「オー、ドレスデンノ近クナリヤ?」

「ヤー、ヤー...」

と、まぁドイツ語はここら辺までが限界...桝谷さん...面目次第もない。

とにかく片言が出てきたので、かなり打解けてくれたご老人。1956年に兵役を逃れるために西ベルリンに逃亡。ユダヤ系ルーマニア人の奥さんと結婚し、アメリカにやってきたとか。奥さんは10年前に亡くなっちゃったんだけど、美人だったんだ...などと思い出話が止めどもなく出てくる。

「誰か有名なミュージシャンと仕事しましたか?」

と聞いたら、

「この前、アイザック・スターンの家のピアノを直しに行ってきた...」

...ウォオーッ!スッゲー...というミーハーな自分をひたすら隠し、

「好きなピアニストっておられますか?」

「やっぱりホロヴィッツだね...サイン入りのレコードもってるのさ...」

...ホロヴィッツとは...古風ですな...。

レストランの由来の話を振り向けたら。

「いやね、ニューヨークのここら辺一帯は昔はジャーマンタウンだったのさ。ドイツ語オンリーの映画館が三つもあったんだ。」

「あぁ...キーノ...でしたっけ」

「そうそう。で、この店は1960年ごろアルゼンチンからやってきたドイツ人夫妻がはじめたのさ。だからもうすごい老舗なんだよ。」

「へっ?またなぜアルゼンチン?」

「ハハハ...ご主人が元ナチス親衛隊だったのさ...。だから戦後亡命していたんだ...。」

「(...マジかよ...。)」

「個人的に親しくしていたから、彼らのニュージャージーの自宅に行ったこともあったけど、昔のSSの制服を着たご主人の若いころの写真があったりして、ありゃおったまげたね。ほら、さっき言ったけど、うちの妻はユダヤ人だったからねぇ...。

「そりゃ...ちょっと...驚きだったでしょうね...。」

「いや、みんなもう過去の話さ。アメリカまでやってきて過去を引きずっているのもバカバカしいはなしだろ。」

「はぁ、なるほど...。」

「まぁそんなわけで、今ではあの夫妻の娘さんがこの店を仕切っているのさ。」

なるほどね~...と話を聞きながら、話題はご老体のご趣味のスキーにうつり、つぎにフスバル(サッカー)なぞお好きですか?と聞いてみたら、

「いや、もうサッカーは見ないね。バイエルン・ミュンヘンだろうが、どこのチームだろうが、最近はプレーヤーが外国人ばかりで...あれはドイツのチームではない!」

「...」

「大体ケルンにモスクを建てるなんて話、どうなっとるんだ!」

「...(話題を変えよう...)そういえば最近1954年ワールド・カップの話の映画がありましたね...『ベルンの奇跡』でしたっけ?」

「そう!あれは忘れられない試合だった...決勝でハンガリーに2点先行されたあとに逆転...3-2...ドイツ初優勝...

...とご老体の目が遠くを見つめて潤んできたところで、

「...おぉ、もうこんな時間か...それでは...」

と失礼しようとしたところ、

「もしよかったら15日のパレードにおいで。」

との一言。

915日にドイツ系アメリカ人のパレードがあるのだとか。来賓はドイツ系アメリカ人で国務長官まで上り詰めたキッシンジャーさんと、東西ドイツ統一の功労者、ヘルムート・コール元首相なんだと。

アメリカではユダヤ系アメリカ人の代表のようなキッシンジャーとコールが揃い踏みとは...ナチスの悪夢も遠くなりにけり...なんだろうか。

しかしこの店に通いつめたらビールとトン足であっという間に通風だな...。

Friday, August 31, 2007

Hollywood Espionage

昨日の「ゼンダ城の虜」エントリーで触れた「第二次世界大戦前夜のハリウッドにおけるイギリス・スパイの活動」の続き...

あのエントリーでも書いたとおり、この話を初めて聞いたのはゴア・ヴィダルの「Screening History」という短編エッセーを読んだとき。主に戦前、1930年代の映画を背景に当時のアメリカ政界とヴィダル個人の思い出を語っている、その向きがお好きな方(オレぐらいか?)には面白い本です。

本来であればこうした「スパイ物」の話題はたまねぎの皮をむくように、外側から核心にじわりじわりと話を進めていったほうが面白いのでしょうが、いきなり本題から入ってしまいます。

映画監督・プロデューサーであったアレクサンダー・コルダ(1893~1956)はウィンストン・チャーチルのハリウッドにおけるエージェントだったのです。

亡命ハンガリー人(ユダヤ系)であったコルダがイギリス国籍を取得したのは1936年。1942年にはナイト位を授爵しています(チャーチルが首相だった時)。

そしてコルダ君、本国イギリスがチェンバレン首相の下で反戦ムードに流れる中、チャーチルの意を請けて、一生懸命

「アメリカ人諸君、風前の灯のイギリスをともに救おう」

っていうプロパギャンダ映画を作っていたのです。

いや、プロパギャンダ映画といってもナチのゲッペルスがやったような露骨なヤツではなく、もっと微妙なヤツですが...

例えば...

「紅はこべ(The Scarlet Pimpernel)」(1934年)
主役のサー・パーシー・ブレイクニーを演じるのは、レスリー・ハワード。後の「風とともに去りぬ」のアシュレー君。なんとコルダと同じ、ハンガリー系イギリス人。

お話の内容は...フランス革命の下、暴政の犠牲となりギロチンの露と消えゆく運命のフランス人貴族たちを救う謎のヒーロー「紅はこべ」の正体は...いかに!

...ナチスの暴政の下、犠牲となるユダヤ人たちの命を救うヒーロー...はいないのかい!

Conquest of the Air」(1936年)
航空技術の発展をなぞったドキュメンタリー・タッチの作品。第一次世界大戦における航空戦の映像もあり。若きオリヴィエが再現シーンで出演しています。

...再軍備したドイツに遅れをとっているものの、イギリスは空軍力の充実に力を注ぐべきだ!これは当時、野に下っていたチャーチルが提唱していた政策。ちなみにイギリス空軍のスター戦闘機スピットファイアの試作機初飛行はこの映画と同じ1936年のこと。

Fire Over England」(1937年)
スペインの暴君、フィリップ二世の命により迫りくる無敵艦隊!エリザベス女王とイングランドの運命はいかに?!オリヴィエとヴィヴィアン・リー演じる若い二人の恋人たちの運命は?!そして果敢にスペイン艦隊に夜襲をかけるオリヴィエ君の命運は!?

...ヨーロッパ本土は暴君の手に落ちた...しかし小国とはいえイングランドあるかぎりヨーロッパに自由の光は消えないのだ!がんばれイングランド!(アメリカ早く応援に来い!)

The Four Feathers」(1939年)
所属部隊の出撃直前に部隊を辞した元英国陸軍士官が、「臆病者」の汚名を雪ぐべく、窮地に陥った部隊を救う大活躍!

...アメリカ!まだ遅くはないぞ!早く応援に来い!

なお、この作品には「ゼンダ...」のザプト大佐ことオーブリー・スミス君が登場します。

That Hamilton Woman」(1941年)
イギリス海軍のヒーロー、ネルソン提督(オリヴィエ...またかよ...)とハミルトン夫人(ヴィヴィアン・リー...またかよ...)の間に燃え上がる不倫の恋...しかし暴君ナポレオンある限りヨーロッパに平和は訪れない。ヒーローは恋人の腕を払いのけ、祖国のために死地に赴かなければならないのだ!

この映画はチャーチルのいちばんお気に入りの映画だったとか。

ヴィダルによれば、こんなコルダ君や関係者のがんばりにより、1937年にプレイボーイなエドワードのピンチヒッターとして戴冠したジョージ六世(今のエリザベス二世のパパ)が北米訪問でアメリカに来たときには、映画好きのアメリカ人たちはすっかり「国王の勇敢なるしもべ」を演じる用意ができていたとか。

ヴィダルの観察によれば、当時のイギリス人映画制作者もアメリカ人の大多数が世界地理にうとい事を知っていたので、映画の冒頭に必ず「地図のシーン」があったのだとか。つまり、誰かが主人公の手を取り、地図や地球儀を指差して、

「ごらん...この島国がイングランドじゃよ...」

というシーンが必ずあったと。

そういえば、「カサブランカ」の冒頭でもフランスのパリからカサブランカまでの道のりを示す「地図のシーン」があったっけ。

確かに今でも「日本は中国南岸にある」なんて平気で言っちゃうアメリカ人ですから、ちゃんと教えておかないと勘違いな国に攻め込んじゃうかもしれないもんね。(ブッシュもイラクにいっちゃったし...。)

チャーチルはお父さんの代からロスチャイルド家と関係が深い。それだけが理由じゃないと思うけれど、チェンバレンに代表されるイギリスのエスタブリッシュメントがナチスのユダヤ人に対する差別政策に目をつぶって和平政策をとるようなことに、チャーチルはがまんできなかったんだろうなと思うわけです。そしてそうした背景がチャーチルと反ドイツ・親イギリスで結束したユダヤ系映画人たちのネットワークの接近に一役買ったのではないかと思うんですが、どうでしょう。

なお、「ゼンダ城の虜」のプロデューサーはデイビッド・O・セルズニック。彼もユダヤ系です。そしてこのセルズニックが一世一代の大作「風とともに去りぬ」(1939年)に取り組んだとき、主役のスカーレット・オハラに抜擢したのがコルダ作品で世に出たヴィヴィアン・リーだったというのには、なにか因縁があるのでしょうかね。

なお、日露戦争時に戦費拠出のためにロンドン・ニューヨーク市場で国債発行を模索していた高橋是清がその目的に成功した陰には、当時ユダヤ人圧迫政策をとっていたロシアに反対するユダヤ人ネットワークの協力があったからなのだ。そこにもチャーチルとロスチャイルドは登場している。

追記:念のため言っておくが、私は「ロスチャイルド家の陰謀」...「赤い盾」...まがいの陰謀説者じゃございません。誰が言った言葉か忘れたが、「陰謀説」というのは、万事万象の因縁関係は知り得る、また説明できると思い込んでいる人間の傲慢の現れなのだそうだ。

Thursday, August 30, 2007

Prisoner of Zenda

昨晩、テレビをつけたら「ゼンダ城の虜The Prisoner of Zenda)(1937年)」をやっていた。

なつかしい。

確か初めて原作の和訳を読んだのは中学生のころ。その後イギリス留学中の1990年ぐらいにテレビでこの映画版を初めて観た。ジョージ・マクドナルド・フレイザーのフラッシュマン・シリーズのパロディー版「Royal Flash」も読んでいる。

アントニー・ホープの原作の出版が1893年だっていうから、この話も古いんだねぇ...。この手の「普通の人が王様や大統領と瓜二つで替え玉をやるという冒険譚」の元祖でしょうな。そうした意味では映画「Dave」や「影武者」のひいおじいさんぐらいにあたるのかもしれない。

この1937年の映画版では主役のルドルフ・ラッセンディル/ルリタニア国王ルドルフ五世を「コールマンひげ」のロナルド・コールマンが演じている。国王の親友、フリッツ・フォン・ターレンハイム役はまだ若い、ゆで卵みたいな顔したデイヴィッド・ニーヴン(以前の関連エントリー、その1その2)。国王に忠実なザプト大佐はオーブリー・スミス。

かたや悪役勢。国王の弟、マイケルはレイモンド・マッセー(後にリンカーン役で名を成します)。ヒトクセもフタクセもあるマイケルの手下、ヘンツォウのルパートにダグラス・フェアバンクス・ジュニア。そしてマイケルの愛人、アントワネット・ドゥ・モウバンにメアリー・アスター。

アスターさんは「マルタの鷹」でもラストにボギーを誘惑しようとして、ボギーにイケズにされています。なんか、そんな役が似合うハリウッド女優には珍しい「昔の名前で出ています」的、陰のある美人なんでしょうか。まぁイングリッド・バーグマンの懇願にもなびかなかったボギーですから(「カサブランカ」ね、念のため)、しょうがないか。

それにしても、こういう「淫らな女」役をフランス人にしてしまう原作者、ホープさん。なんかいかにもイギリス人な短絡思考です。

映画公開時には、この「だらしない国王に代わってイギリス人紳士が正義を行う」というプロットラインが、シンプソン夫人に骨抜きにされて大英帝国の玉座を辞した(1936年の出来事)エドワード八世への批判と受け止められたらしい。確かにフリッツ役のデイヴィッド・ニーヴンが言う最後のセリフ、

「歴史は必ずしも正しい人間を国王に選ばない」

というのはウィンザー公エドワードへのあてつけととれるかもしれない。

コールマン、ニーヴン、そしてザプト役のスミスは当時のハリウッド在住イギリス人俳優のリーダー的存在だったので、何らかの意図がそこに働いていたとしてもそれは不思議ではないかもしれん。

もっと面白い話は、コールマンが実はイギリス情報局のエージェントだったらしいという話。これは作家のゴア・ヴィダルが言っているのだが、もしそうだとしたら国王になりすますルドルフ役を演じるコールマン君の演技をまたいっそう興味深く観ることができます。

オーブリー・スミスはクリケットのイングランド代表だったこともあるらしく、ハリウッド・クリケット・クラブのキャプテンだったとか。 そしてスミスは戦後、「良好な英米関係への貢献」を理由にナイト位を授爵されている。

そしてサンドハースト(イギリスの陸軍士官学校)出身のニーヴン。

怪しい三人組だ...。

君たち...第二次世界大戦前夜のハリウッドでいったい何をしていたのかね...?

付録:なんか笑えるゼンダ城の虜ファンサイト...というか悪役のはずのマイケル応援サイト